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矢口長者の隠れ里

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どこまでお話しましたか。
そうそう、主君を失った新田勢の落ち武者と妻子郎党が、丹沢の奥地に豊かな隠れ里を切り拓くところまでで――。

その頃、隠れ里の川下に当たる地に、二つの集落がございました。
一つは宮ヶ瀬村ト申しまして、一つは鳥屋村(とやむら)ト申します。

ある日の夕暮れ時。
宮ヶ瀬村の若い衆が二人。
猟の帰りに、渓川で顔を洗っておりました。

「おや、何か流れてくるぞ」
「何だ。また、子熊の死骸でも流れてきたか」
「いや、黒いことにかけてはその通りだが、そんなに大きなものじゃねえ」
「じゃあ、何だ。グズグズ言ってねえで拾ってみろ」

一人がまだザブザブと顔を洗っている間に。
もう一人が、その流れてきたものをさっと拾い上げました。

「おい、これを見てみろ」
「やッ。どうして、こんなところにこんなものが」

二人が驚いたのも無理はございません。
人など住まぬはずの川上から、黒い椀が流れてきた。
それもただの椀ではない。
漆塗りに螺鈿細工の施された、よほどの上物でございます。

「こんな立派な代物は、市でもお目にかかったことはねえ」
「一体、どんな奴が落としていったんだ」

ト、二人は当然、旅人か何かがたまたまこの川上を通りかかったものと考えている。

「このご時世だ。いずれにしても、どちらかの側の貴人の一行に違いねえ」
「なるほど。慣れない山越えの最中に、うっかり落としていったんだろうな」
「よし、こいつはカネになるぞ」
「どうしてだ」
「馬鹿だな。分からねえか。こちとら、庭みてえなもんだ。道案内でもしてやれば、金の延べ棒くらいは平気でくれるだろう」
「もしかすると、家来に取り立ててくれるかも知れねえ」

などと、勝手に期待を膨らませて、二人は山道を登っていく。
そのうちに日が暮れてまいりましたが、欲のためならそのくらいはなんでもない。

ト、思ってはいたものの――。

「お、おいッ。あれは何だ」

二人の目に飛び込んできたものは。
月光を背に受けて聳え立つ、見たこともない大きな館。

「お、鬼の館だ」
「いや、山賊の隠れ家だ」

ソレッと二人は村を目指し、もと来た道を駆け下りていく。
転がるようにして村にたどり着くと、螺鈿細工の漆椀を掲げて力説した。

「や、山の上に、いつの間にか山賊の隠れ家ができているぞ」
「いや、あれは山賊風情の隠れ家じゃねえ。鬼の棲家に違いねえ」

鬼だろうが、山賊だろうが、村の安全にとっては一大事です。
いつ襲ってくるか分からないものは、すべて敵と考えなければなりません。

村の衆はみな、若い衆二人の話に縮み上がるほどに怯えました。
女子供は泣き叫んでいる。

「取り敢えず、鳥屋村の衆にも知らせよう。こんな時のための、取り決めではねえか」

宮ヶ瀬村と鳥屋村の間では、いざという時に兵を出しあって、互いの村を守る取り決めがある。

「鬼の館の噂は、前々からうちの村でもあった。だが、情けねえことに、誰も確かめに行く者はいなかった。今度ばかりはそっちの村に、俺たちが不覚を取ったわな」




そう言いながら、鳥屋村の乙名(おとな)の顔には、険しい表情が浮かんでいる。

「そんなことはこの際どうでもいい。こういうことは、やられる前にやらねばならねえ。こっちは兵を用意したぞ。そっちはどうだ」

ト、宮ヶ瀬村の乙名は、鳥屋村側に決断を迫る。
これぞまさに鬼の形相。

「そっちが行かずとも、こっちはとうから行く気だわい」

この一言で、両村が一個の軍団トなりまして。
向こうから気づかれていないうちに、夜襲を掛けようと話がまとまった。

一方の信吉初め、一族郎党の者たちでございますが。
まさか麓の百姓が、夜討ちを掛けてくるとは、思ってもおりませんから。
男たちは信吉を中心に、富を語り、酒盛りをする。
妻と娘は、早々に寝所に入って休んでいる。

ト、そこへ――。

突然、地鳴りが地底から湧き上がってくるかのような妄念に、一同は襲われた。

「な、なんだ。どうした」

信吉も郎党も突然のことに狼狽する。

「地響きではないのか」
「いや、違う。誰かが攻めてくるのだ」
「敵だッ、敵だッ」
「敵だとッ。一体どこの敵がこんな山奥へ」

ト、互いに顔を見合っているところへ、乱暴に戸が押し破られる。
入ってきたのは、竹槍や錆びた鎧で武装した、百姓たちでございます。
だが、これこそ信吉一族には、鬼か山賊のようにしか見えません。

村の男たちは取り憑かれたように、矢口一族を斬って斬って斬りまくる。

寝所で休んでいた母と娘も、早くからこの騒ぎに気づきまして。
震えながら身を寄せあっておりましたが。
男たちが、無抵抗のまま次々と斬り殺されていったのを知りますト。
着の身着のまま、手を取り合って山中を逃げていきましたが。

必死に逃げる途中で母娘ははぐれてしまいまして。
母はあえなく捕らえられて、斬り殺される。
娘がその悲鳴を聞いて振り返る。
ト――。

みなで苦労して建てた館が、真っ赤な炎に包まれておりました。

娘は進退ここに極まれりト。
ついに覚悟を決めまして。
二十歳を一期として、黄泉の客となりました。

この時、娘が入水してみずから命を絶ったのが、二十が沢(はたちがさわ)。
村人たちが矢口一族の隠し金を数え、六百両と知ったのが、六百沢。
その他の品々を運びきれずに、落としてしまったのが、転がし沢。
勝負沢はもちろん、村人たちが一族を皆殺しにした、館の跡に出来た沢でございます。

互いに見知らぬ者同士のはずが。
知らぬがゆえの恐怖に駆られたその末に。
相手を無慈悲に滅ぼしてしまうという。

そんなよくあるはなし――。
もとい、余苦在話でございます。

(相州ノ伝説ヨリ)

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