月蝕む夜に鞭打つ女

この怪異譚を友達とシェア

どこまでお話しましたか。
そうそう、月蝕の晩に出会った女に、侍の男が命を預けるように迫られるところまでで――。

「さあ、こちらへいらっしゃい」

女は男の手を取りまして。
奥の間へと連れて行く。
握る手に妙に力が籠もっている。

――この女、やはりただの者ではないぞ。

ト、今更ながらに夢から覚める思いがいたしましたが。
時すでに遅しトハ、このことで。

奥の間へ来て、男はハッとした。
そこにはおあつらえ向きに、磔台が用意されている。

女は慣れた様子で男の髪に縄を結わいつけますト。
その縄で男を磔台に、背中を露出させた格好で縛り付ける。

女は烏帽子を被り、水干装束で男装するト。
手には笞を握って、床をピシャリと一度打った。

「痛ければ仰ってください」

ト言われましても、男はすでにまな板の鯉。

ピシャリッ――。
――ウッ。
ピシャリッ――。
――ウッ。

背中に疝痛が走ります。
男が呻き声を上げるたびに。
目の前の光景が歪んでいく。

ト、その陽炎のような視界の中に。
浮かんでは消える、女の顔。
童女のようにあどけない顔立ちで。
いつも男を愛おしそうに見つめていた顔。

その愛らしい容貌が。
今まさに我が身の背後で仁王立ちし。
鬼女のごとく凄まじき形相で。
笞をふるっているかト考えますト。

――もっと、打てッ。

男は妙な悦びに、ブルブルッと総身が震えだす。
笞が背中を打つたびに、グッと奥歯を噛みしめる。
やがて、女が手を止めて。

「痛くはありませんか」
「なに、これくらい」
「まあッ、八十回も打ったのに。――やっぱり私が見込んだ通りのお方」

女が男の縛めを解く。
優しく抱きかかえて頬ずりをする。
竈の土を崩して煎じ、酢ト一緒に飲ませます。

「さあ、しばらくお休みなさい」

ト、これまで二人で臥した床に。
我ひとり寝かされますト。
男は途端に呪われたように。
前後なく眠ってしまいました。

一刻(二時間)ほどして起こされた時には。
これまで以上の豪華な食事が、男の前に運ばれていた。

それから三日ほどは、またぞろ終日愛欲の日々で。
ところが、痛みが引いてきた頃に。
再び男は磔台に縛られた。

ピシャリッ――。
――ウッ。
ピシャリッ――。
――ウッ。

「痛くはないですか」
「なに、まだまだ」
「まあ、嬉しい」

ト、女は残酷にも顔を綻ばせる。
竈の土を酢で割って飲ませ。
英気を養わせながら、戯れに耽る。

そんなことがまた、何度となく。
繰り返されたある時のこと。

男の笞の痕が回復するのを待って。
女は手ずから装束を取り出し、男に着せる。
黒い水干、袴、やなぐい、脚絆、藁沓――。

女は男の目を真剣に見つめて、こう言った。

「さあ、これから蓼中の御門にお行きなさい。弓の弦を鳴らすと、誰かが同じように弦を鳴らして答えます。その者にただ『参りました』と言えば、どこかへ連れて行かれるはずです。命じられた場所を守っていれば、全てが終わった後、船岳(ふなおか)の麓で分け前を分配されるはずです。しかし、決して受け取ってはいけませんよ」

男はこんな謎を含められながらも。
言われたとおりの場所へ参りますト。
全ては女が言っていたとおりで。
弦を鳴らすト、どこへか連れて行かれました。

そこには同じような装束の者が。
すでに二、三十人集まっている。

スポンサーリンク

それらの者たちが一様に、畏敬を持って崇める男がひとり。
色の白い小柄な男が、小悪党どもに指示を出している。
男にしては華奢過ぎる小男が、頭目のようでございます。

侍は盗賊団の見張りとして雇われたのでございます。

侍の男は京の町のさる屋敷の前に連れて行かれまして。
他の者たちとともに、門の前に配置されました。
中から家人が飛び出してくるト、弓で射る。
こうしてそれなりに、任された仕事をこなしますト。

すべてが終わって、小山の麓に連れて行かれる。
話に聞いていたとおり、獲物の山分けが始まりました。

「いえ、私はいりません。仕事を学びに来た、ほんの新米でございます」

そう断って、立ち去った。
家に帰るト、女が風呂を沸かし、食事を手ずから用意して待っている。

二人はもう千夜も隔てられていたかのように。
どちらからともなく抱き寄せ合う。

衾の中で、女が鍵を一つ取り出した。

「六角小路の北に蔵が立ち並ぶ一角があります。そこへ行って蔵を開けて、お好きなものを持っておいでなさい。あの辺りには車貸しという者たちがたくさんおります。あなたのお好きなように使ってください」

翌日、言われたとおりに行ってみるト。
たくさんの蔵が立ち並んでいる中に。
渡された鍵が合う蔵が一つある。
男は中に収められている品々を適当に選んで持ち帰った。

こうして、また同じようなことが。
一年、二年と繰り返される。

一つ異なることと言えば。
昨日より今日、今日より明日――ト。
日を追うごとに、互いへの愛が。
いや増しに増していくことで。

それがある日のことでございます。

女が男を見送りながら。
どうしたことか、さめざめと泣いている。

男は不思議に思いつつも。
迎えが来ているので、家を出て。
盗賊団の見張りをそつなく務め。
いつものように帰ってくるト。

そこは一面、野原になっている。
女も屋敷も霞のように消えている。
どうしたことかト、件の蔵に駆けつけますト。
そこもやはり一面、あだしが原で。

ふと夜空を見上げるト。
中空に浮かぶ赤銅色の丸い月。
輪郭に僅かに白い稜線を残し。
今しも闇に蝕まれている。

「俺は初めからここに立っていただけだったのか――」

ト、その時。

ふと思い出したように背中が疼き出す。

わずか一瞬の間の短くも甘い夢。
その幻が、儚くもスッと霧散して。
ただ妻の笞の責め苦だけが。
刻まれるようにこの身に残っていた。

「畜生ッ。生も死もお前の意のままとは、このことだったか」

愛しい妻を突然失って。
荒野に投げ出されたかの侍は。

痛みだした大きな背中を小さく丸め。
まるで意欲を失した生ける屍のように。

不吉らしい闇の中へ、とぼとぼト消えていったという。

そんなよくあるはなし――。
もとい、余苦在話でございます。

(「今昔物語集」巻二十九第三『人に知られざる女盗人の語』ヨリ。芥川龍之介「偸盗」ノ原拠ナリト云フ)

スポンサーリンク

この怪異譚を友達とシェア

新着情報のフォローはこちらから