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幽女を見る目

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どこまでお話しましたか。
そうそう、老人から渡された眼薬をさした沈が、幽鬼を見る力を得てしまったところまでで――。

沈は図らずも亡鬼を見る目を得てしまい。
外へ出れば右も左も死霊だらけでございますから。
初めのうちこそ家に閉じこもり、震えてばかりおりましたが。

人間、どんな境遇でもそのうちに慣れてしまうもので。
毎日目にしているト、亡霊も生きた人間も大して変わらないように思えてくる。
ひと月もするト、すっかり平気になってしまいまして。
やがて、見えているモノを請われて語るようになる。

そこにお前の家の婆さんが座っているだとか。
親父がそろそろ嫁をもらえと言っているぞナドと教えてりますト。

人々も面白がってこぞって話を聞きに来る。
いつしか「沈見鬼」ナドと呼ばれるようになった。

するト、この噂が巡り巡って役人の耳にも入りました。

ここに韓総管ト申す土地の官人がございまして。
この者は妻を三日前に亡くしたばかりでございましたが。
幽鬼を見ることができるトいう噂を聞きつけますト。
固辞する沈を自邸へ半ば強引に連れてこさせました。

「わ、私は好きで幽霊を見ているわけじゃありません。それに、見えはしますが、ここにいないものをあの世から連れてくることなどできません。現に今、亡くなった奥方など私にはまったく見えません。これ以上どうしろと言うんです」

罪もないのに役人宅へ連行されましたので。
沈は不安で不安で、泣く泣く訴え続けましたが。

「案ずるな。妻の居室へ連れていく。調度品も着物も、まだ生きていたときのままそこに置いてある。あれが現れたら教えてくれればそれでいい」

両脇を抱えられて奥方の部屋へ連れて行かれますト。
そこに押し込められて、扉を閉じられてしまいました。

「ちょっと。開けてください。開けてくださいよ」

室内には確かに、今にも主人が戻ってきそうな匂いがある。
ところが部屋の気配がどことなくひんやりといたしますのは。
やはりその残された面影が、死者のものだからかもしれません。

生気の失われた女の部屋に。
沈はひとり立ち尽くしている。

ト。

ふと気がつけば、己の背後に。
幽鬼の女が立っていた。

それが、見知らぬ顔ではございません。

「あ、あなたは――」

幽女は返事はいたしません。

ただ口元にうっすらと笑みを浮かべ。
じっと射抜くようにこちらを見ているのみ。
その姿が心なしか透き通っておりました。

その面影を沈は忘れもしない。
あの日、門の外にちらりと見かけた。
小柄ながら髪を高く結っていた。
美しいあの女でございます。

「――亡くなっただなんて」

沈はその事実にしばし言葉を失った。
呆然として、美しい女の顔を見ておりますト。

女がやおら口を開く。
ゆっくりト何かを喋ろうとしております。

「――ア、シ、タ、マ、タ、キ、テ」

声には出さねど、口元は確かにそう動いている。




なんとかそれだけ伝えるト、幽女はスッと姿を消しました。

「どうだ。妻は現れたのか」

出てきた沈に韓が駆け寄る。
沈は魂を抜かれた人のように。
力なく、うんとうなずきますト。

「明日また来ます」

ト、告げて去っていった。

沈を骨抜きにしたのは言うまでもない。
女の美しさと、誘うように言ったその言葉で。

冴えた夜、岩の上にひとり。
沈は円い月を眺めながら。
昼間の女霊のことを思い出している。

心に浮かぶあの微笑。

その身は人形のように小柄ながら。
高く結い上げたみどりの黒髪。
雪のように白い肌。
柳のように細い腰つき。

髪にはやはり桃の花が挿してあった。

「あのひとはどうしてまた来てと言ったのだろう。また会って何を伝えようというのだろう」

うっとりと心は夢を見る。
あんな幽鬼ならいつまでも見ていたい。
ぼんやりと眺める先には円い月。

「待てよ。月――。円い――。そうだ、今日は中秋か」

薬はいずれ効き目が切れるト。
中秋の日の昼間に待てト言っていたが。
それは、薬が今日切れるからではなかろうか。

沈は岩場を駆け下りていく。

「いない、いないッ」

登ってくるときに見た大勢の亡鬼たちが。
いまは一体も見えません。

ふと、眼に痒みを感じてまばたきをする。
ト、まるで葡萄の皮が剥かれるように。
眼玉を覆っていた薄皮がべろりト剥けました。

「ああ、俺の眼は治ってしまった。ただの眼に戻ってしまった」

明日また来いと言ったのは。
今日は早く帰って老人に会い。
あの眼薬をさしてきてト。
言いたかったのかもしれません。

老人との約束を忘れていたことを。
沈は心底悔やみましたが。
気づいたときには後の祭りで。

その後、沈は老人はもちろん、韓家の亡妻の姿も二度と見ることは叶いませんでした。

ただし、瞼の裏にはあの女の麗しい姿が、焼きついていつまでも離れなかったという。

そんなよくあるはなし――。
もとい、余苦在話でございます。

(南宋ノ志怪小説「夷堅志」丙志巻十七『沈見鬼』ヨリ)

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