::お知らせ:: 画師略伝 葛飾北斎 ―画狂老人は一処に安住せず― を追加しました
 

朽ちても朽ちぬ赤い花

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どこまでお話しましたか。
そうそう、僧侶の弁西が老母の治療代欲しさに山中で若い勧進聖を殺してしまうところまでで――。

弁西は二つの布袋を両手に抱え。
郷里へと峠道を駆け下りていく。

布袋の中にはちょうど三貫分の銭。
老母はおかげで一命をとりとめましたが。

何食わぬ顔で寺へ戻った弁西には。
たちまち、ある噂が広がりました。

ト申しましても、これが悪評でない。
それどころか、むしろその逆でございまして。

「さすがは弁西様じゃ」
「檀家からすぐに三貫銭が集まったとか」
「危篤のご母堂を間一髪お救いになられたそうじゃ」
「みな、弁西様の孝行心に打たれたんじゃろう」
「お人柄のなせるわざじゃ」
「弁西様に喜捨するのは、仏様に喜捨するのと同じじゃからな」
「わしも喜捨したぞ」
「わしもじゃ」
「ああ、わしもじゃ」

ト、ありもしない美談にすり替わった。

するト、噂は噂を呼びまして。
弁西が何をしても讃えられるようになる。
年月を経るうちに高僧と崇められるようになりまして。
ついには「大徳(だいとこ)」ト称されるようにまでなりました。

ところが、これを苦々しく思う御仁がある。
誰あろう、弁西その人でございます。

弁西はこの頃、よく夢を見た。

己は御本尊の十一面観音に対座して。
観音経をあげている。
朝の勤行でございます。

ふと、こうべをもたげますト。
その十一面の御尊顔が。
すべて額から赤い血を流し。
苦痛に顔を歪ませている。

「妙音観世音 梵音海潮音 勝彼世間音 是故須常念――」
(たえなる響き、観世音。法の調べは満ち潮の如く、世間の雑事をよく制する。故に常に観音を念ずべし――)

いつしか、血染めの観音は。
かの少年僧に姿を変え。
十一面の猛き御尊顔で。
弁西に向かって迫ってくる。

「――弁西、弁西」
「ひぃいいっ」
「お前が殺したのはこの顔か」
「ひぃいいっ」
「この顔か」
「ひぃいいっ」
「この顔か」
「ひぃいいっ――」

毎朝、汗だくで目を覚ます。

やがて、弁西は心労が祟りまして。
眉が真っ白に染まってしまいました。

するト、これを見た檀家の者たちが。

「白眉じゃ。これぞ、白眉じゃ」

ト、人の気も知らずに讃えます。

弁西はもはや耐えられなくなった。

ある年の冬のことでございます。
弁西は夜明け前にこっそり寺を抜け出しまして。
そのまま姿をくらましました。

それから月日は流れまして。
人々が弁西という高僧のいたことを。
そろそろ忘れかけていた頃のこと。
やはり、ある冬のことでございましたが。

熊野灘の漁夫たちが。
今日も今日とて船いっぱいに。
獲物を積んで帰ってくる。

小雪ちらつく那智の浜へ。
手漕ぎ船が戻ってまいりますト。
そこへ立ち尽くしている者がある。

これは廻国修行の老僧で。
痩せこけた身に墨染衣。
片手に枯れ枝の杖を突き。
こちらをじっと見つめておりましたが。




「もし」
「はい」
「ここから観音峠へはどう参りますかな」
「観音峠とな」
「はあ。なんでも観音様のお声を拝聴できると聞きましたが」
「ああ、それなら、この先に船大工の家がございます。今日は山へ木を伐り出しに行くと申しておりましたから、連れて行ってもらいなさい」

ト、漁夫たちがそう申しますので。
老僧はさっそく船大工の家を訪れる。

「エイヤー、ヨー」

ト、棹さす舟で川を遡り。
雪深い熊野の山奥へ着きますト。

どこからともなく聞こえてまいりますのは。
紛うことなき法華経観世音菩薩普門品。

「具足神通力 広修智方便 十方諸国土 無刹不現身」
(神通力を具え、広く種々の方便を用い、十方諸国土にその身を現さざる所なし)

老僧はモノにでも取り憑かれたかのように。
慌てて舟から飛び降りますト。
船大工が引き止めるのにも耳を貸さず。
一目散に雪山を駆け上っていった。

「もったいない。おお、もったいない――」

声が徐々に近づいてくる。
まさに海潮音の如くして。
しんしんたるこの雪山に。
法の調べが満ち満ちてゆく。

「種種諸悪趣 地獄鬼畜生 生老病死苦 以漸悉令滅」
(種々の苦しみ、すなわち地獄餓鬼畜生、生老病死の苦しみは、やがてことごとく滅び去るであろう)

これは紛うことなき、かの峠。
若き日に己が人を殺めたあの峠。
そして聞こえるこの尊い声は。
かの殺されし少年のうら若き声。

老僧はなりふり構わず声を慕い。
雪に埋もれた藪の中を。
踏み分け踏み分け進んでいくト。

声はもう間近に聞こえます。

これは紛うことなき、かの藪で。
死してもなお経を唱え続けた少年の。
死骸を打ち捨てたあの藪で。

老僧は犬のように這いつくばり。
両手で雪を掻き出しますト。
現れたのはひとつの髑髏。
今もなお経を唱え続けている。

髑髏の中には、色鮮やかな。
一輪の花が咲いていた。

「花だ。真っ赤な花だ。いや――」

世界を覆う真っ白な雪。
経を唱え続ける白い髑髏。
そして、一輪の赤い花と思ったものは――。

いまだ朽ちぬ真紅の舌でございました。

見上げると、四周の木々に積もった雪が。
みなことごとく髑髏のように見えました。

「まこと、肉体は滅びるとも、御仏の教えは不滅でござりますなあ」

老僧はひとりそうつぶやきますト。
堰を切ったように激しく咽び泣いたという。

そんなよくあるはなし――。
もとい、余苦在話でございます。

(「日本霊異記」下巻第一『法華経を憶持せし者の舌、曝りたる髑髏の中に著きて朽ちずありし縁』及ビ第三『沙門の十一面観世音の像に憑り願ひて、現報を得し縁』ヨリ)

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