どこまでお話しましたか。
そうそう、三娘子の旅店に泊まった趙季和が、夜中の厨房から漏れる物音に気づいたところまでで――。
隙間から厨房を覗き見ますト。
中には三娘子がひとりきりで。
他には誰もいない様子です。
ト、初めそう思ったのも無理はない。
確かにその時まではひとりだった。
ところがよく見ておりますト。
三娘子は小さな木箱をごそごそトいじっている。
何やら木でできた人形のようなものを取り出しますト。
竈の前に並べ始めました。
人と。
牛と。
鋤鍬の形をしたのが、一つずつ――。
三娘子は水を含みます。
口の端に妖しい笑みを浮かべるや。
パッとそれらに吹きかけた。
ト、その瞬間でございます。
人も牛も、まるで命を吹き込まれたように――。
途端にせかせか動き出すではございませんか。
小人が木馬を牽き始めます。
鋤鍬で地べたの土を耕します。
我々の膝丈ほどもない小人です。
あまりのことに趙は言葉を失って。
立ち去ることも出来ずに固まっておりました。
ト、三娘子は手にした袋から。
また何かを取り出しますト。
その小人に手渡しました。
どうやら何かの種のようで。
小人は耕した畑に、それを撒き始めた。
驚く間もございません。
みるみるうちに芽が伸びていく。
花を咲かせ、実と生ります。
香りといい、白く可憐な佇まいといい。
これはおそらく蕎麦の花だ。
小人がそれを刈り取るト。
三娘子がすかさず臼を出す。
粉を挽いて臼で搗き。
餅のようにしたところで、お役御免。
小人と牛と鋤鍬は、再び木箱に収められた。
フッと灯りが消えました。
翌朝。
同宿の客らとともに食堂へ出るト。
三娘子は朝食の支度をしている。
出された食事が焼餅で――。
彼の国では饅頭のような形をしておりまして。
きつね色にこんがり焼いたのを朝に食う。
皆、うまそうに食べております。
が、趙はさすがに気味が悪い。
食べるふりだけして宿を出た。
懐に件の焼餅を隠したまま。
ところが、やはり気にかかる。
ふと思い直して引き返し。
外から宿を覗いてみると――。
焼餅を食べた客たちが。
急に地を蹴りいななきました。
生きながら驢馬に身を変じたのでございます。
待っていたトばかりに三娘子は。
鈴なりになった驢馬を裏庭へ追い込んだ。
荷や路銀を身ぐるみ剥ぎ盗るト。
何食わぬ顔で表から戻って行きました。
恐ろしさのあまりにしばらく趙は。
その場で立ちすくんでおりましたが――。
その時、趙がふと思いついたのが。
おそらく三娘子にとっては運の尽きで。
彼は近くの料理屋から。
似たような焼餅を買ってくるト。
素知らぬふりで宿へ戻りました。
この先は言わずもがなでございましょうナ。
趙は二つの焼餅を持っている。
一つは他の店から買ったもの。
一つは三娘子が焼いたもの。
趙はあれこれ言いくるめ。
一つを自分が食べてみせ。
一つを三娘子に食べさせた。
ト、地を蹴りいなないたのは、女主人。
それからしばらく趙季和は。
驢馬に変じた三娘子を。
鞭で叩いて一日十里。
四年に渡る歳月を。
諸国を遍歴して回りましたが。
ある時、一人の老人が――。
「板橋店の三娘子ッ」
ト、驢馬を見るなり、言い当てまして。
もう赦しておやりなさい――ト。
年長者に諭されたものですから。
そろそろなぶり飽きたころでもありましたし。
口縄を解いて放してやりますト。
三娘子はやつれた女の姿に立ち戻り。
老人を深々と拝すや、その場をそそくさと立ち去ったという。
そんなよくあるはなし――。
もとい、余苦在話でございます。
(唐代ノ伝奇小説集「幻異志」中ノ一遍『板橋三娘子』ヨリ。泉鏡花「高野聖」ノ原拠ト云フ)
コメント
蕎麦はもともとはこの話のように餅にしたり或いは水に溶いて「蕎麦がき」にして食べる物だったのですね。
「蕎麦切り」なるものは日本での発明らしい。
日本ではこの数百年間「蕎麦」と言えば「蕎麦切り」のことですからね。
しかし、ソ「バ」を喰ってロ「バ」になるとか、嫌な響きだなあ(-_-;)
昔読んだ中国の童話で農業を営む青年が「蕎麦」の精の少女と「フォール・イン・ラブ」する話があったように記憶しているのですが、どなたかご存知ですか?
ヌーベルハンバーグ様
コメントありがとうございます。
蕎麦は中国では稗や粟などと同じ粗末な雑穀の扱いで、日常の食事として定着することはなかったそうです。
この場面は、腹をすかせた旅人に粗食を提供する簡易宿のようなイメージで描かれているのかもしれませんね。
ところで、蕎麦の精の話というのは、これのことでしょうか?
https://fv1.jp/72917/
山東省には『蕎麦むすめ』という漢民族の民話が伝わっている。話はこうだ。
~ 貧農の若者が猫の額みたいに狭く、石ころだらけの土地を何年もかかって一生懸命耕作して蕎麦を播いた。すると、やっと白い花が咲いて満開になった。ある月夜に若者は白い花の精に出会い幸せな一時を過ごすことができた(以下略)