どこまでお話しましたか。
そうそう、毎夜、六里の道のりを通ってくる女に不信を抱いた男が、相手をあやかしのたぐいと疑い始めるところまでで――。
その晩、いつもの様に上気した顔つきで、女が忍んでまいります。
男はいつになく硬い表情で出迎えると、もはや決まりきった手順で床に入る。
改めて気をつけてみますと、相手の肌がやはり冷たく感じます。
男は思い切って切り出してみた。
「これほどまでに惹かれ合い、慕い合う仲ではないか。どうして本当のことを教えてくれないのだ」
男が恨めしそうに申しますト、女の方ではキョトンとしている。
「女の足で毎晩六里の道を、こんな短い時間の中で、行き来できるはずがない。何か隠しているんだろう。俺は何も責めない。ただ、本当のことを話してくれ」
そう言われて、思い当たるところがあったのか、女は不意に笑みを漏らした。
ト申しましても、別段、妖しい笑みではございません。
照れ隠しといったところでございましょうか。
顔を耳まで真っ赤にしているのが、月明かりの下でもよく分かる。
「――そんな、恥ずかしいこと聞かないで」
「何が恥ずかしいことがあるんだ」
ト、男もまさに狐につままれたような心持ちで。
「話せと仰るなら、恥を忍んでお話しますけど。陸を歩けば確かに六里かもしれませんが、矢橋の渡ならたかだか五十丁ばかりですから。それを泳いで渡っているんです」
「お、泳いで――」
あまりの返答に男は思わず口ごもる。
「でも、こんな夜更けに泳いで渡ってくるなんて」
「それは心配いりません」
ト、女は妙なところで胸を張る。
「確かに夜の湖は暗くて心もとないですけど、この鬢鏡を使えばよいのです」
女が懐から遠慮がちに取り出したのは、手のひらほどの手鏡で。
男の顔を下から覗き込むようにして、ニタッと笑うその様は、もはや照れ隠しには見えません。
「これを額に結わえつけて、頭を上げて泳ぐのです。すると、向こう岸にまします観音様の常夜燈が、この鏡に写って水を照らしてくださるのです。それで三、四尺(約1m)ほど先まで見えるようになります。その光の導くところに従って泳ぎますと、苦もなくこの家の裏に着くのです。観音様のご加護でございますよ」
ト、女が滔々と種明かしを述べますと、夜明けが近づいてまいりました。
女はこれで隠し立てすることもなくなりましたので。
笑みをたたえて軽やかに去って行きましたが。
男は、真実を知るにつけ、なお一層、その執念が恐ろしくなる。
化生の――トは申しませんが、何かよからぬものに憑かれたような気がしてならない。
男はこれではっきりと心を決めまして。
翌日、件の観音に詣でますと、かねてより知己のある小僧に頼みました。
「一晩だけ、湖水を照らす常夜燈に覆いをしてもらうわけにはいかないか」
一晩だけならト、小僧も承知を致しまして、男はとりあえず家に帰った。
「この灯りが消えたら、あの女はどうするのだろう」
ト、チョット試してみる考えからではございましたが。
――その晩、とうとう女は姿を現しませんでした。
そこで、男は小僧に礼を言い、もう覆いはしてくれなくていいと申し出ました。
――が。
次の晩も、また次の晩も、女は姿を現さない。
そうなると、男の方でも胸騒ぎがいたしますので。
例の草津の知り合いに、女の消息を尋ねましたところ。
あの女は数日前から行方がしれません、ト言う。
男はたちまち血の気が引く思いがいたしまして。
もう隠しているわけにはいかない、いずれ露見するであろうト。
自身の主人に、事のいきさつを正直に打ち明けまして。
主人も驚きまして、人を雇い、広い湖水を捜索させますト。
それから三日後に、瀬田の橋――これは琵琶湖から流れ出る瀬田川に架かる橋でございます。
その瀬田の橋のたもとに、女の亡骸が流れ着いたと知らせがあった。
大方、月のない闇夜に泳ぎ出したため、岸を見失って溺れたのであろうト。
事情を知らない人々の口の端にも、またたく間にのぼりました。
男はみずからの所業に恥じ入りまして、頭を丸め、廻国修行に出たと申しますが。
一方、引き上げられた女の亡骸は、右手に手鏡を握ったまま硬直していたそうで。
おそらく常夜燈を必死に探して、額から外したのでございましょう。
鏡を四方八方にかざしながら、虚しく沈んでいったのではないかという。
そんなよくあるはなし――。
もとい、余苦在話でございます。
(「三州奇談」巻之二ヨリ)
コメント
毎晩往復百丁を泳ぎ切る情念。
狐狸妖怪の類ではない生身の人間の話であればこそ、男がその執念を余計に恐れたのも頷けますな。
ただ女が憐れではありますが。
女自身がそれを情念や執念とは特に思っていないところに、男はなにか尋常でないものを感じて恐怖したのでしょうナ。
それだけに女がいっそう哀れです。
恐怖と悲哀は紙一重といったところでございましょうか。