どこまでお話しましたか。
そうそう、三本枝の狐を懲らしめに竹やぶへ入った彦兵衛が、老婆から赤子を取り上げて囲炉裏に投げ込むところまでで――。
彦兵衛は、当然赤子が火の中でただの重い石に戻ると思っている。
ところが、囲炉裏に投げ込まれたその瞬間――。
赤子がまるで癲癇でも起こしたかのように、泣き叫びました。
婆さんも娘も悲鳴を上げる。
赤子は投げつけられた衝撃もあって、火の中でぐったりとする。
婆さんが慌てて囲炉裏に手を突っ込む。
熱さに顔がゆがみます。
ト、なんとか取り出したのは、すでに焼けただれた赤子の死骸。
「人の孫を――。よくも――よくも殺しおって――」
呆気にとられて立ち尽くしている彦兵衛を、婆さんが見上げて睨みます。
皺の深い老婆の顔が、怒りと怨みに満ちている。
傍らにあった包丁をさっと手に取ると、彦兵衛めがけて振り回した。
その殺気に気圧されて、彦兵衛は思わず逃げ出しました。
娘は赤子の傍らで、ただ呆然としゃがみこんでいる。
老婆が狂ったように、一人で彦兵衛を追ってきます。
「殺してやる――。人の孫をよくも――。殺してやる――」
婆さんの怨み言が背後から山を駆け上がってくるようで。
「しまった。俺は大変なことをしでかしてしまった。しまった――」
彦兵衛は、体中から冷や汗を流しながら、息も絶え絶えに逃げていきました。
真っ暗な山道を走っていくと、竹やぶの向こうにぼんやりと灯りが見えてきた。
どうやら寺のようでございます。
「お願えします。お願えします。どうか助けてくだせえ」
藁にもすがる思いで、彦兵衛は門を叩きました。
やがて、中から坊さんが現れた。
「どうなさった。そんなに慌てて」
ト、髷を振り乱した彦兵衛を見ても、落ち着いて応じるところはさすが仏道者で。
「誤って、赤ん坊を殺してしまいました。婆さんが私を殺しに来ます。どうか助けてくだせえ」
「ともかく中へ入って隠れていなさい。その婆さんには私が会おう。話は後で聞く」
彦兵衛はお堂に招き入れられまして、ご本尊の陰に隠れました。
やがて、激しく門を叩く音がして、婆さんの殺気だった声が聞こえてきた。
「坊さん、坊さん。ここを開けてくだされ。今、大男が一人来ましたろう。あれはうちの孫の仇です」
坊さんはまたゆっくりと降りていって、門を開けた。
勢い込んで、婆さんがお堂に駆け上がってくる。
「坊さん、坊さん。あの男をどこに隠しました。あれはうちの孫の仇です。この包丁でなますのように切り刻んでやらねばならねえ」
振り乱した白髪に、手には包丁をぎゅっと握りしめている。
お堂の中を、ぎょろぎょろと必死に見回す様は、まるで山姥のようでございます。
燈明の火に照らされて、ゆらゆら揺れる老婆の影。
「落ち着きなさい。私には何のことだかわからない。ここには誰も来ておらぬ」
「坊さん、あんたまでわしをいたぶる気か。孫が殺されたと言うに」
婆さんが坊さんを怨むように見上げます。
「それは大変だ。その男が来たら、きっと私がここに捕らえておこう。だが、ここにはおらぬ」
「本当だな、坊さん」
「ああ、本当だ」
「それでは、あの男が来たら、きっと捕まえてくだせえよ」
何度も念を押して、老婆はようやく帰っていきました。
坊さんは彦兵衛を呼び出して、事のいきさつを話すよううながしました。
彦兵衛は涙を流しながら、ありのままを語りました。
「起きてしまったことは仕方がない。だが、犯した罪は消えはしない。頭を丸めて出家し、赤子の菩提を弔いなさい」
坊さんに諭されまして、彦兵衛は是非もなく頷きました。
どうせこのまま村に帰るわけにもまいりません。
今はただ坊さまの御恩に報じよう、ト考えた。
「それではここで待っておれ」
奥の間へ行くと、坊さんはさっそく剃刀を手に戻ってくる。
彦兵衛も神妙に背筋を伸ばして、頭を差し出す。
スッと剃刀が肌に当たります。
ザッ、ザッ、ザッ――。
ザッ、ザッ、ザッ――。
「ぼ、坊さま」
「なんだ」
「少し痛いのでございますが」
「痛かろう。人をひとり殺したのだ。これが罪の重さと心得なさい」
「はい――」
ザッ、ザッ、ザッ――。
ザッ、ザッ、ザッ――。
刃こぼれのした剃刀が、彦兵衛の肌に引っかかる。
気が遠くなるような痛みに、歯を食いしばり必死に耐えてはおりましたが。
目の前につーっと血が一筋垂れてきて、ついにそのまま気を失いました。
再び気がついたのは、翌朝のことで。
彦兵衛は三本枝の竹やぶの中で、大の字になって倒れていた。
ヒリヒリと痛む頭にそっと手をやる。
「あッ――」
髪を剃られたばかりでない。
頭の皮まで剥がされている。
そこでようやく、化かされたことに気がつきまして。
肩を落として、トボトボと村へ戻っていきました。
畜生の鼻を明かしてやるつもりが、かえって化かされて帰ることになり。
彦兵衛は悔しくて悔しくてたまりませんが。
ふと気にかかったことがございまして。
それがために、ゾッと身の毛がよだちました。
「待て。どこからどこまでが狐だ――」
青ざめた顔で帰ってきた彦兵衛は、ただ一言、
「狐は見なかった」
トだけ答えたという。
そんなよくあるはなし――。
もとい、余苦在話でございます。
(陸奥ノ民話ヨリ)
コメント
下げが秀逸ですな。
読み手としてもどこからが狐の仕業か待ち構えて読み進め、最後の下げでくるっとやられました。お話自体が狐に化かされたようです。
己は罪を犯したのか否か。
訊くに訊けない。
確かめるすべもない。
出口のない恐怖とはこのことでしょうナ。