こんな話がございます。
平安の昔の話でございます。
ある貴人の家に、若年ながら容姿麗しく、また人柄も凛々しいご子息がございました。
当時の人々は、「近衛の中将ではないか」と噂したそうですから、マ、そのようにしておきましょう。
さて、この中将がある時、かの清水(きよみず)を参拝いたしました。
ト、毎度お定まりで恐縮ではございますが――。
やはりこういう時は、偶然美しい女を見かけるようにできております。
私もたまにはそんな目にあってみたいものでございますナ。
市女笠に隠れて顔ははっきり見えませんが、そのお召し物の華やかなことと言ったらございません。
中将も「これはきっと然るべき身分の方が、お忍びで参られたものに違いない」と考えた。
女がふと顔を上げたすきに、中将が覗き見る。
年の頃は二十歳ばかりでございましょうか。
まだあどけなく、とても可愛らしい顔立ちをしております。
中将はすっかり心を奪われてしまいまして、どうしてもあの女と縁を持ちたい。
供をしていた小舎人童(こどねりわらわ)に命じて、跡をつけさせました。
帰宅して待っておりますと、しばらくして小舎人童が戻ってまいりました。
「見てまいりました。住まいは京ではなく、清水の南方、阿弥陀峰の北あたりでございます。とても大きな屋敷で、豊かに暮らしているようでございます。年配の侍女に見つかって咎められましたが、中将様のことを正直に申し上げますと、次からは自分が取り次ぎましょうとのことでした」
中将はそれを聞いて喜びまして、さっそく文を書いて遣りました。
すると、すぐさま返ってきたのは、それは美しい女手の返信で。
こうして、しばらく中将は、阿弥陀峰の北麓に住む女と文のやり取りをしておりましたが。
ある時の返事に、女が書き送ってまいりましたことには。
「なにぶん、山里住まいでございますので、京へ出ることもなかなか叶いません。不都合でございませんでしたら、是非こちらへおいでくださいませ。御簾越しにでもお会いしたいと存じます」
御簾越しとは申しますが、それは当時の女のたしなみとして、奥ゆかしく申したものでございます。
中将はとるものもとりあえず出掛けて行きましたが、こちらは男の性(さが)と申すもの。
童の案内に従い、馬に乗って行きますと、やがて大きな屋敷に着いた。
聞いていたとおり、年配の侍女が現れて、「どうぞこちらへ」と手招きする。
その後からついていきながら、ふと見渡しますト。
屋敷の周囲は強固な築垣で固められ、門は高くそびえている。
庭には水堀を深く掘ってあり、そこに長い橋が渡してある。
たもとに小屋があり、小舎人童ら供の者たちはそこで足止めされました。
中将ひとりが橋の向こうへ渡ります。
ものものしい雰囲気の中、中将は大きな屋敷を案内されていきます。
部屋があまた並ぶ中に、いかにも客を招き入れるために作られたような立派な部屋がある。
中将は促されるまま、妻戸を開けました。
端正に整えられた室内に、屏風や几帳が整然と配置されております。
山里ながらも、気品ある女の暮らしぶりに、思わず感じ入りました。
そのままひとり置かれまして、中将はじっと座して待っている。
聞こえてくるのは風の音、笹のこすれる音、虫の鳴く音、そればかり。
ト、夜が更けた頃になって、ようやく女が現れました。
どちらからともなく手を取り合い、几帳の内へ入ります。
ついに二人が契ります。
肌を重ねてみますト、なお一層、女が愛おしく感じられてきましたが。
それは女にしても同じだったようでございます。
二人はいつまでも尽きることなく、これまでの積もる想いを語り合いまして。
行く末長く添い遂げようと、堅く言葉を取り交わしましたが。
女は突然、物思いに沈むように黙りこんでしまった。
闇の中、やがてすすり泣く声が耳元に聞こえてくる。
「どうして、そんなに悲しそうに泣くのです」
「分かりません。自分でも分からないまま、涙が自然にこぼれるのです」
男には女の心が分からない。
たった今、添い遂げようと誓ったばかりです。
無骨と申せば無骨でしょうが、男は女を問い詰めるほかにございません。
「どうして」
「分かりません」
「分からない。薄情な方だ」
「それでは――」
女が中将の袖を引く。
「それでは申し上げますが、決してお恨みくださいませぬよう」
ト、一層の涙声で。
男は訝しく思いながらも、女の口元に耳を寄せる。
――チョット、一息つきまして。
コメント
女はそれが最期の夜と知っていたのかもしれませんな。もしくは覚悟の夜であったか。
美しい女の墓標代わりに鉾が立っているところが、不釣り合いで悲しい光景のように感じます。
墓標代わり――。
なるほど、良い画ですナ。