こんな話がございます。
紀州の道成寺(どうじょうじ)は古いお寺でございます。
大宝元年の創建ト申しますから、奈良の都より歴史は古い。
この由緒ある道成寺に、かつて曰くつきの鐘がございまして。
二度に渡る消失により、残念ながら今は残っておりません。
二度目の消失は、信長の焼き討ちによるものでございますが。
一度目は何が原因かと申しますト。
それが、これからお話する安珍清姫の物語でございます。
醍醐天皇の御代、遠く奥州より毎年、熊野権現に詣でる山伏がおりました。
名を安珍(あんちん)と申し、若くまた優れた美貌の持ち主として知られておりました。
道成寺はその熊野への途次にございまして。
寺の近くに、真砂の庄司ト申す者が住んでおりました。
庄司には可愛らしい娘が一人おります。
それが、名を清姫(きよひめ)と申す幼な子で。
安珍はこの庄司の家を、毎年、宿にしておりました。
ですから、清姫のことは小さい時からよく知っております。
父の庄司は時々、
「あれがお前の夫になる人だよ」
などと戯れておりましたが。
大人は戯れのつもりでも、それを真に受けるのが子どもというもので。
かてて加えて、幼な子にも美男子はやはり美男子です。
清姫は、いつか安珍の妻になることを夢見て、毎日を暮らしておりました。
やがて月日は経ち、安珍の熊野参詣も十余年を数えるようになりまして。
それにしたがって、清姫も年頃の娘になる。
長年の修行を積んできた安珍に、まさかそんなつもりはございませんが。
娘の方では、いつ安珍が自分に求婚するのかト、焦れながら待っている。
今年も――。
そして、次の年も――。
安珍にその気配はございません。
一年、そして一年ト、虚しく時は過ぎていく。
その年も、安珍は庄司の家に泊まりましたが。
清姫はもう待ってはいられない。
思いつめた末に、みずから安珍の寝間に忍び入りました。
とはいえ、安珍にとってはまだまだ子どもです。
枕元に現れた姿を見ても落ち着いたもの。
それが清姫には恨めしく。
「いつまで私を捨て置くつもりです」
そう言って、すっと床に入ってきた。
事ここに至って、ようやく安珍も慌てます。
「一樹の陰、一河の流れも他生の縁。前世からの約束と思って過ごしてまいりました。どうか明日、私を奥州へ連れて行ってくださいませ」
ト言って、床の中、安珍の腕にすがりつく。
女人の肌のぬくもりを感じて、持戒の身はぞっとした。
思わず振り払って、床から出ますト。
「お待ちなさい。あなたはまだ子どもだから分からないのです。私は修行の身だ。妻を持つなど到底許されない」
清姫はしばらく黙っておりましたが、やがてしくしくと肩を震わせて泣き始めました。
その声が、次第に嗚咽となって寝間に響きます。
安珍は困惑する。庄司に見られては大ごとです。
「分かった。分かりました。では、こうしましょう。私はどうしても熊野に参詣しなければならない。帰りにきっとこの家に立ち寄ります。その時に、私から父君にお話し申し上げましょう。いいですね」
清姫は泣きじゃくりながらも、安珍の言葉を信じて頷いた。
その晩は、そうしてなんとかやり過ごしはしましたが。
安珍は、あの娘の思いはひとかたならぬと察しまして。
明け方早く、逃げるように庄司の家を発ちました。
清姫の方では、男が参詣を終えて戻ってくるのを、今か今かと待ち受けている。
ところが、いつまで経っても安珍は現れません。
思い余って戸の外に立ちますト、熊野の方から誰かが歩いてくるのが見える。
山伏らしき、老人で。
「ああ、あの人なら私より少し前に帰って行きましたよ」
事も無げに言われたその瞬間――。
抑えていた清姫の怒りに火が着きます。
まさかとは思っていたが、あの安珍様に騙されるとは。
愛執が憎悪に変わります。
おのれ、安珍――。
きっと契ってみせるから待っておれ――。
清姫は、その場で駆けだした。
まなこを大きくひん剥き、歯をぎりぎりト噛み締める。
髪は振り乱され、履物は脱げて裸足になった。
それでも構わず走り続けます。
その愛怨に満ちた凄まじい姿に、道行く人々が振り返る。
――チョット、一息つきまして。