どこまでお話しましたか。
そうそう、但馬屋の娘お夏と手代の清十郎が、身分を超えた恋に堕ちるところまでで――。
初めて思いを遂げた花見の頃から、その年の暮れに至るまで。
二人は同じ屋根の下に住みながら、身分の壁に厳しく隔てられておりましたが。
お夏と清十郎は辛い所帯を覚悟して、手に手を取って駆け落ちをする。
飾磨の港から船に乗りまして、二人は京を目指します。
伊勢参りの者もあれば、大阪の商人、奈良の具足屋、醍醐三宝院の山伏など。
さまざまな人が乗り合う船の中、二人は肩寄せ合っておりました。
やがて船は出航する。
陸路と違い、海路というものは、駆け落ちにはもってこいでございます。
一旦、船が出れば、当分の間は連れ戻される危惧がございません。
二人はようやく笑みを浮かべて、互いを見合う。
事情を知った相客たちが、二人の前途を祝して杯を交わす。
船は風を受けて、順調に進みます。
文字通りの順風満帆でございましたが。
一里ほど進んだ時でございます。
乗り合わせていた飛脚が、突然素っ頓狂な声を上げました。
「しまった。忘れたッ」
何の騒ぎかと周りの者が問いただしますト。
預かった文を入れた状箱を港においてきたト申します。
「どうか、このとおりでございます。船を返しておくんなまし。このままでは飛脚の名折れでございます」
土下座をしてまでの懇願に、相客たちも不憫に思いまして。
仕方ない、返してやれトいうことになる。
弱ったのはお夏と清十郎で。
再び肩を寄せあって、物陰に隠れるように息を潜めておりますト。
無情にも船はスイスイと復路を進んでいきまして。
やがてもとの飾磨の港に着岸する。
ト、そこに追っ手が駆けつけておりました。
お夏は駕籠で連れ戻される。
清十郎はお嬢様をかどわかした罪で、店の座敷牢に入れられる。
あの飛脚さえ乗り合わせていなければ――。
清十郎は恨みながらも、お夏の身を案じておりました。
お夏もまた、食を絶ち、願文をしたためまして。
室津明神に清十郎の命乞いを続けます。
そうして、月日は経ち、再び桜の花の咲く頃となる。
ところが、不運というのはどうも重なるものらしく。
但馬屋に一つの事件が出来いたしました。
店の内藏に厳重に保管されていた、七百両もの大金が紛失したというのでございます。
当然のごとく、清十郎が召しだされまして、あれやこれやと詮議をされる。
申し開きも虚しく、お夏に盗み出させて拉致をしたということに落着いたしまして。
二十五歳を一期として、清十郎は刑場の露と消えました。
あまりにあっけなく事が片付きましたために。
誰もこのことをお夏に伝える者はない。
知らぬが仏とは申しますが。
お夏は清十郎の死を知らぬまま、命乞いをまだ続けておりました。
その後、六月になって、件の七百両がひょっこり姿を現した。
家中の虫干しをしておりますト。
紛失したはずの小判が、長持の中から出てきてしまった。
こうなるト、なお一層、誰もお夏に真実を告げられない。
お夏は同じ屋根の下に暮らしているはずの清十郎を思いながら。
ぼんやりと外の通りを眺めておりました。
通りでは童たちが遊んでいる。
罪のない子どもたちのわらべうたに、ふとこんな文句が聞こえてきた。
「清十郎殺さば お夏も殺せ」
お夏は初めは聞き過ごしておりましたが。
そのうちに、恐ろしさに身の毛がよだちまして。
家中の者に尋ねて回りますが、誰も教えてくれません。
ようやく、見かねた乳母が清十郎の刑死を知らせた時。
お夏はすでに狂乱しておりました。
「清十郎殺さば お夏も殺せ――」
「――生きて想いをさしょうより」
お夏は童に混じって、一緒に無邪気に歌うようになった。
「向こう通るは清十郎じゃないか」
「笠がよく似た 菅笠が ヤハンハハ」
歌い疲れるト、ゲラゲラ笑い、乱れた姿で方々を徘徊する。
哀れに思った人々が、刑場に取り捨てられていた清十郎の死骸を埋めまして。
そこに松柏を植えて塚にしてやりました。
それからはお夏が夜ごと、この塚を訪れるようになりまして。
亡き人の冥福を祈るようになる。
この時、まだ十六の娘でございました。
その後の消息は確かではございませんが。
ある人は塚の前で命を絶ったと言い。
ある人は髪を下ろして尼になったと申します。
初めての恋心が、巡り巡って。
情人を非業の死に追い込んだという。
そんなよくあるはなし――。
もとい、余苦在話でございます。
(井原西鶴「好色五人女」『姿姫路清十郎物語』ヨリ。『お夏清十郎』又ハ『お夏狂乱』ノ通称デ知ラル)