どこまでお話しましたか。
そうそう、三年の月日を孤独に過ごした奥方が、侍女の夕霧に自分も砧を打つと言い出したところまでで――。
夕霧は奥方の眼差しの凄まじさに圧倒されてしまいまして。
おずおずと砧と衣を準備いたしました。
自身は何をするということもございませんので。
ただ奥方の様子を見守っております。
奥方は慣れない手つきで砧を握りますト。
奥歯を噛み締め、目を見開き。
袖がまくれ上がるほどに砧を振り上げて。
ターン、と力いっぱい打ち据えた。
「奥様。そう強く打たれなくても――」
思わず、夕霧が口を挟みますが。
奥方はまるで聞いておりません。
奥歯を噛み締め、目を見開き。
砧を振り上げ。
ターン――。
額に汗が滲んでいけばいくほどに。
狂気が乗り移っていくようでございます。
ターン――。
ターン――。
ターン――。
ターン――。
夕霧は恐ろしくなって、何も言葉を発せない。
砧を打つ乾いた音が、秋の夜長に響きます。
風の音、虫の声を、砧の音が切り裂いていく。
ト、そこへ。
「頼もう。頼もう。都から使者に参ってござる」
ト、武者の声。
夕霧は、もはやいたたまれない思いでおりましたので。
すがるようにして使者を招き入れますト。
「用向きは、用向きは――」
ト、急かします。
「それが実は、あまり芳しい報せではございませぬ。今年の暮れも帰参叶わじとのことにございます」
砧がころんト床に落ちました。
その晩から奥方はしばらく寝付いておりましたが。
恨みを心に湛えたまま、やがて帰らぬ人となりました。
知らせを聞いて駆けつけた何某は、己の所業を悔やんで泣きましたが。
せめて亡き妻に申し開きがしたいト思いまして。
梓巫女を招き寄せ、口寄せをしてもらうことにした。
魂を呼び寄せようと言うのでございますナ。
ぽろん、ぽろんト、梓の弓が爪弾かれますト。
徐々に巫女の体に妻の亡魂が乗り移ります。
「あなた、せめて――」
亡魂が静かに語り始める。
「せめて、私が死ぬ前に戻っていらっしゃれば――」
「すまぬ。それが――」
ト、夫が弁解しようとするのも聞こうとせずに、
「せめて、私が死ぬ前に戻っていらっしゃれば、恋慕も怨恨も、砧に乗せて打ち据えることなどなかったでしょうに。死してなお生者を恋い慕い、恨み嘆くその妄執の罪のため、今では私が地獄の邏卒から、毎日打ち据えられる日々でございます」
そう恨みがましく語る姿を見れば。
そこに梓巫女の姿はすでになく。
地獄の殴打と火焔責めに、やつれ果てた女霊の姿。
その哀れな姿がただ、ぼんやりト闇に浮かんでいる。
「涙を流せば焔となり、胸が焦がれて、煙にむせびます。あなたを求めて叫びましても、声は出ず、ものも聞こえず。聞こえるのはただ、己を責める心の声ばかりです」
妻はまだ怨恨の消えぬ表情で、夫と侍女の二人を見て、
「旅枕の夢の中からでも、せめて消息を知らせてくださっていれば――」
ト、感極まって涙を流しましたが。
その涙が二人の目の前で、徐々に焔に変じていきまして。
妻は苦しそうに胸を押さえて、のたうち回っておりましたが。
突然、ボッと口から大きな煙を吐き出しますト。
その煙に包まれるようにして。
妻は姿を消しました。
夕霧は恐ろしさに思わず主人に手を添える。
主人は侍女の手を握り、肩を抱き寄せてともに震える。
いつのまにか姿の戻っていた梓巫女が、
「また来ましょうか」
ト尋ねましたが。
男は侍女の肩を抱いたまま。
凍りついた表情で、
「いや、もういい」
トだけ答えたという。
そんなよくあるはなし――。
もとい、余苦在話でございます。
(世阿弥作ノ謡曲「砧」ヨリ)