どこまでお話しましたか。
そうそう、長兄の太郎が嫁となる女の顔を見るために、峠を越えようとした山中で、かつて行方知れずとなった男たちの顔に遭遇するところまでで――。
魔物たちから、「戻れ、帰れ、行くな」ト言われますそのたびに。
かえって引き下がると悪いことが起きるような予感がいたしまして。
無我夢中で逃げるようにして、山道を進んでいきました。
いつしか深い谷へ迷い込む。
大きな木があたり一面に茂っております。
昼間でもひんやりと薄暗い森でございます。
太郎はにわかに方向を見失って立ち止まる。
汗が急に冷えて、背中がゾクゾクとしてまいります。
ト、突然背後から囁きかける声がある。
「どちらへ」
ドキッとして振り返るト、女が一人立っております。
太郎はようやく手足のある者に出会えて、心からほっといたしまして。
「や、山向うの隣り村へ行くところです」
化け物を見たこと、嫁の顔を見に行くことなど、思いつくまま話しました。
年の頃は二十二、三、村では見たことがないような美しい女です。
その美しい女が、太郎の支離滅裂な話に、にっこりと笑みを浮かべ、耳を傾けている。
「震えていらっしゃる」
太郎が嫁の話をするト、女は微笑んで言いました。
「そんなに固くなっていては、お嫁さんに笑われてしまいますよ」
優しく諭すように、女は言いました。
太郎は、心の内を見抜かれているようで、急に恥ずかしくなる。
「休んでからお行きなさい」
まるで、母が子を招くようにして、女が太郎の手を引きまして。
太郎も魅入られたように、その場で固くなる。
「立って休むより、座って休めと昔の言葉に申すでしょう」
太郎は黙って従いました。
女も並んで座りました。
「座って休むより、寝て休めと申します」
困惑しながらも太郎は横になる。
女も当然のごとくに横になる。
「度胸をつけてからお行きなさい」
ト言って、女が太郎に寄り添った。
太郎の体が小刻みに震えました。
何の用事で山向うの隣り村へ行ったのかも、分からないまま。
あれから半月経っても、兄の太郎が戻りませんので。
弟の次郎は妻に相談をいたしまして。
ともかくも、隣り村へと探しに行くことにいたしました。
山の麓まで来るト、小屋がある。
通りすぎようとするト、白髪の老婆に呼び止められました。
「どこへ行く」
「山向うの村ですが」
「お前、一人で来たのか」
「そうです」
老婆はじっと次郎を見て考える。
「やめておけ。命を落とす。家に帰れ」
ト、太郎に言ったのと同じように言いました。
それから次郎は、太郎が見た全てのものを同様に見る。
谷川の滝壺の水面――。
笹むらの激しく揺れる草の間――。
丸木橋の下を流れる渓流の岩間――。
全く同じ所に、同じ顔を見る。
誰もが「戻れ」「帰れ」「行くな」ト。
太郎に言ったのと同じことを言う。
無論、次郎はその事情を知りません。
次郎は、山中に怪異の現れることを、ある程度覚悟をしておりましたので。
これらを見ても、兄を探しに行くという意志に変わりはない。
――ト、思ってはおりましたが。
その時、不意に背後から囁きかけたのは。
やはり、あの二十二、三の美しい女で。
次郎は太郎と同じように魅入られてしまい。
促されるまま、休む、座る、横になる。
「良き夫、良き父でいるのにも疲れたでしょう」
ト、これも心を見抜かれた途端に、我を失った。
さて、遺された三郎は。
長兄、次兄ト、立て続けに二人も行方知れずになりましたので。
さすがの放蕩者も、そこはやはり人間ですから。
周囲が止めるのも聞かず、二人の兄を探しに、山向うを目指して発ちました。
山の麓まで来るト、小屋がある。
通りすぎようとするト、白髪の老婆に呼び止められる。
「どこへ行く」
「山向うの村だよ」
「お前、一人で来たのか」
「そうだ」
老婆はじっと三郎を見て考えておりましたが。
「よし、行け。お前なら大丈夫だ。行って仇を打ってこい」
ト、前の二人とはまるで違うことを言う。
三郎は、兄二人が何者かに殺されたのだト、その時初めて知りまして。
怒りに震えて、森の中をドシンドシンと踏みしめるように歩いていく。
その地響きに応えるように。
滝壺の水面に現れた五郎次の顔が――。
笹むらの草の合間に現れた老人の顔が――。
丸木橋の下の水に浮いたり沈んだりしている若者の顔が――。
「行け、三郎。行け」
ト、揃って三郎の背中を押す。
ついに兄二人が迷い込んだ、深い谷までやってまいりますト。
「どちらへ」
ト、女が優しく囁きかけてきました。
三郎は振り返って、女を一目見るなり、おかしくてたまらない。
勘当されるほどの遊び人ですから、女の手練手管くらい読めています。
「さては、こいつが山の怪だな」
三郎のほうが相手の心をただちに見抜きまして。
促されるまま、適当に休み、座り、横になってやる。
女がしおらしく三郎に寄り添いました。
が、三郎は鼻歌を歌って相手にもしない。
どうするものかト様子をうかがっておりますト。
女はたちまち大蛇に姿を変じました。
横になった三郎に覆いかぶさったかト思うト。
グルグルと体に巻き付いてギュッと縛り付けてくる。
三郎は、麓の老婆から話を聞いておりましたから。
実は、この時をじっと待ち受けておりました。
脚絆に隠していた短刀に手を伸ばしますト。
「エイッ」
ト、刀を思いっきり天に向かって引き抜いた。
幾重にも巻き付いた大蛇の腹が、一度にスパっと切り裂かれる。
「三郎、三郎」
ト、森中に響き渡る木霊の歓声。
女の現れた木の陰を、三郎が見てみますト。
そこに無数の人骨が散在しており。
兄二人の着物や帯も、そこに散らばっておりました。
心の清らかな人間ほど、たやすく邪に呑み込まれてしまうという。
そんなよくあるはなし――。
もとい、余苦在話でございます。
(奥州遠野ノ民話ヨリ)