どこまでお話しましたか。
そうそう、殺生に明け暮れていた悪人の源太夫が、講堂の僧に刀を突きつけて脅したところまでで――。
講師の僧は、源太夫に凄まれて恐怖におののきまして。
自身がこの場から逃げ出したい気持ちでおりました。
苦しい時の神頼みとは申しますが。
これは僧侶ですので、頼ったのは仏でございます。
「これより西、多くの世界を過ぎたところに、阿弥陀仏の浄土がございます。御仏は心広く、長年罪を重ねてきた者でも、心を改めて『南無阿弥陀仏』とお唱えさえすれば、必ずお迎えに来てくださると申します。そして、いつか自身も仏になれるのでございます」
講師が上目遣いに窺うと、源太夫はカッと目を見開いてこちらを見返している。
「しかし、そいつだって、俺のような悪人はお呼びではないだろう」
「そんなことはございません」
「嘘をつけッ。俺がそいつの名を呼んだら、そいつは答えてくれるというのか。え、答えてなどくれまい」
源太夫はどうだと言わんばかりに、講師を睨みつけましたが。
「そんなことはございません。誠の心をもってお呼びになれば、どんな者であろうと、必ず答えて下さいます」
講師はあっさりと言ってのけました。
「しかし、それにしたって資格のようなものがあるだろう」
「そんなものもございません。強いて申せば、私のように頭を丸めることで、御仏より他には頼るまじと、意志を示すことくらいでしょう。しかし、それにしたところで、みずからが仏弟子である印として行うものに過ぎません」
「そうか――」
ト、源太夫は答えるト、眼前に突き付けていた刀の柄を、僧の胸元に押し付けました。
「では、今すぐ俺の頭を剃れ」
一同がざわめきました。
講師もこれには困惑する。
「それは良いお心がけではございますが、今すぐと言われて出来るようなものではございますまい。まずはご帰宅なされて、妻子一族とご相談の上――」
ト、言葉を濁すよりほかございませんでしたが。
「貴様はさっき仏弟子を名乗ったろう。どんな者であろうと呼べば答えると言ったではないか。これだから、貴様ら偽法師は胸くそが悪い。貴様になど用はない。阿弥陀を連れて来い、仏を呼んでこい」
源太夫は刀を振り回して、大騒ぎをする。
そのうちに、みずからの髻を片手で乱暴に掴みますト。
刀をもって、根元からばっさりト切り落としてしまった。
講師はあまりのことに唖然として、ただ見ている。
群衆は、口々にさざめきます。
異変を感じて、手下たちが刀を抜いて乗り込んでくる。
それを源太夫が大声で叫んで制しました。
「俺が真人間になろうというのを、お前たちは邪魔をするつもりか。今ここで縁を切ってやるから、ひとり残らず俺のもとから去れッ」
手下たちは、源太夫の形相に怯んで後ずさりする。
「剃れッ、剃れッ。さっさと剃らぬか。剃らぬば、貴様を斬り殺すぞ」
脅されて、講師は震える手を抑えながら、源太夫の頭を剃りあげました。
こうして源太夫は、にわかに入道となりまして。
これまでの薄汚い衣を脱いで、袈裟に替え。
手にした弓矢を、仏具に持ち替え。
首からは金太鼓を掛けまして。
「俺はこれから西へ行く。金を叩いて、阿弥陀仏の名を呼んで、返事があるまでどこまででも行ってやる。返事を聞くまでは、たとえ山にぶち当たろうと海にぶち当たろうと、決して戻ってきはしまいぞ。ただひたすらに返事を求めて歩き続けるのだ」
そう言って、金を一つ「コーン」と叩きますト。
「阿弥陀仏よや、おおい、おおい」
ト、呆然と立ちすくむ一同をよそに、歩き去って行きました。
源太夫は、たった一人で西へ向かって歩き続ける。
みずから宣言したとおり、深い川にぶつかっても、決して浅瀬を探すことなく。
高い峰に行く手を阻まれても、谷間道へ迂回することもしませんでした。
野宿を続けて、西へ西へ進んでいきますト。
やがて、一宇の寺が見えてきた。
そこに住持がひとり住んでおりましたので。
「俺はここまで脇道をすることもなく、まして後ろを振り返ることもなく、ただひたすら西へ西へ歩いてきた。これから高い峰を一つ越える。草を結びながら行くから、気が向いたらお前も遊びに来い」
住持は源太夫を心配しまして、干し飯を与えましたが。
「こんなにいらぬわ」
ト言って、わずかばかりしか受け取りませんでした。
住持は、源太夫のあまりのひたむきさが、かえって気に掛かりまして。
七日ほど経ってから、後を追って西へ向かいますト。
言葉に違わず、道中所々に草を結んだ跡がございます。
その跡を追って、住持が峰を登っていきますト。
それよりもさらに高いところに、また峰がある。
その峰に登ってみますト、西に海を一面に望めるところへ出た。
そこに二股の木がありましたが。
よく見るト、その木の股に源太夫が登って腰を掛けている。
「阿弥陀仏よや、おおい、おおい」
源太夫が海に向かって叫んでいる。
住持に気づくと、大いに喜びまして。
「俺はここからさらに西へ向かおうと、海へ入っていくつもりだった。それが、ここで存外に阿弥陀仏の返事が聞けたから、さっきからこうして呼んでいるのだ」
ト、喜々として言う。
住持は大層驚いた。
「返事があったとな」
「そうだ。今、呼んでみせるから聞いておれ」
そう言って、源太夫は得意気に声を張り上げる。
「阿弥陀仏よや、おおい、おおい。いずこにおわします」
するト、海中から響いてきたのは妙なる声。
「ここにおるぞよ――」
源太夫は童子のごとく手を叩いて喜んで、
「聞いたか、聞いたか」
ト問うト、住持もすでに感涙にむせんでいた。
「これで分かったろう。さあ、お前さんは帰りな」
源太夫は住持を追い返そうトする。
住持は腰から干し飯を取り出して、
「せめて食べ物だけでも持っておきなさい」
ト手渡そうとしましたが、源太夫は、
「もはや、何を食らうことがあるか」
ト言って受け取ろうとしない。
その腰には、七日前に渡した干し飯が、手付かずのまま挟んであった。
住持は追われるようにして、その場を一旦去りましたが。
やはり、気に掛かりまして、七日後に再び訪れてみますト。
源太夫は七日前と同じように。
木の股に腰掛け。
西に向かって。
死んでいた。
抜け殻トなったその亡骸の口からは。
鮮やかな蓮華の花が生えていたという。
そんなよくあるはなし――。
もとい、余苦在話でございます。
(「今昔物語集」巻第十九ノ十四『讃岐国多度郡五位聞法即ち出家せる語』ヨリ。芥川龍之介「往生絵巻」ノ原拠ナリ)