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鬼の手

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こんな話がございます。
平安の昔の話でございます。

とある地に、鹿や猪の猟を生業とする兄弟がございました。
いつも二人で山に入り、「待ち」ト呼ばれる手法で猟を行っておりました。

離れた二本の高い木の股に、長く頑丈な横木を渡しまして。
その上に二人が並んで立ち、下を通る獲物を弓で狙うというもので。

九月も下旬となったある晩のこと。

見上げれば夜空に月はなく、見下ろせば眼下に闇が広がっている。
静まり返った森のなかで、兄弟は鹿のやって来る音に耳を澄ましておりました。
二人を長い静寂が包んでいる。

「おかしい――」

ト、まず兄がそっとつぶやいた。

「――今夜に限って、獲物が来ない」

弟はそれを聞いて、一つ息をつきますト。

「母者人が一人寂しく待っております。空手で帰るわけにはまいりますまい――」

ト、深い憂いを湛えた声音で言いました。

兄は何も返さない。
再び、静寂が二人の間に流れます。
鹿の忍び来る気配はまるでない。

そして、そのまま時が過ぎる。
兄がまた、その静寂を厭うように、口を開く。

「次郎よ。もう、いい加減やめにしないか」

弟は、ハッと息を呑み込んで。

「何のことです」
「兄弟じゃないか。下手に取り繕うのは、お互いもうやめにしよう」
「さあ、私には何のことだか――」
「ええいッ、白を切るなッ」

兄者が苛立って声を上げた。

「静かに。鹿が逃げます――」
「鹿だと。そんなもの、逃げたければ逃げればいい。母者人が一人寂しく待っていると言ったな。――何を待つのだ。俺達二人を取って食おうと、待っているとでも言うのか」
「兄上、言っていいことと悪いことが――」

弟は慌てて兄を諌めます。

「そうではないか、次郎よ」




闇の中で、兄者人がこちらをきッと睨んでいるのが、弟には分かった。

「お前、近頃の俺達二人が、どこかおかしいとは思わないのか」
「さ、さあ。私は何もおかしくは思いません」

兄の太郎が「チッ」と舌を打ちました。

「どこまでも白々しい奴だ。では聞くが、どうして俺達二人は、近頃こんな夜遅くまで、阿呆のように木の上にずっと立ち尽くしているのだ。おい。お前、家に帰りたくないんだろう。言っておくが、俺は心底帰りたくないぞ」
「そ、そんなことは――」
「もういいッ」

太郎は、煮え切らない弟を振り払うように、言う。

「お前の言い分は分からぬでもない。あれでも、腹を痛めて我々二人を産んでくれた母親だ。世間的にも、子として孝を尽くさねばならぬという理屈はよく分かる。だが、どうだ。あの母親が、いったい母親らしかった時があったか。えッ、次郎。お前は、あの母親から実の子どもらしい扱いを受けたことが一度でもあるのか。言っておくが、俺はないぞ。いつも、叩かれ、責めさいなまれた思い出ばかりだ」

次郎はもはや、答える言葉を失っている。

「お互いに、もう白状しようじゃないか。俺もお前も、あの母親を心底憎んでいるのだ。ただ、世間体のために、憎しみを露わにできないでいるだけだ。少なくとも、俺はそうだ。そして、お前もそうだと、俺は知っている」
「な、何を言います――」

ト、答えた次郎の声のか細さは、今にも消え入りそうなほどでございます。

「いい加減、認めるがいい。認めた先に、俺からお前への頼みがあるのだ」

その時、不意に夜のしじまを切り裂くように、坂道を鹿が駆け下りてくる音――。

「射れッ」

ト、太郎が叫ぶ。
すでに弓を引き絞っていた次郎が、間髪入れずに矢を放つ。
秋の冷気を穿つようにして、矢が鋭い音を立てて飛んでいく。
ドサッと獲物の倒れる音。

「そうだ。その意気だ。その憎しみに満ちた矢を、お前は俺に向かって射れ。それが俺の頼みだ」

その言葉に、次郎は一瞬、戸惑った。

「今ここに、俺の髻(もとどり)を掴んで離そうとしない手が一つある。俺は瞬時に避けるから、お前はその憎しみを矢に乗せて、力の限り射ればいい。こう言えば、お前にも分かるだろう」

次郎は半信半疑のまま、震える手で弓を引き絞りますト。
ままよ、どうにでもなれト、矢の飛ぶに任せて放ちました。

ウォーッと、山犬の遠吠えのような物凄い声が。
冷たい夜空にこだまする。

――チョット、一息つきまして。

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