どこまでお話ししましたか。
そうそう、長七に溺愛されていた雌犬が、新妻に嫉妬して襲い掛かったところまでで――。
女房と雌犬の板挟みになった長七は。
悩みに悩んだ末に、一つの決断を下しました。
穏便に誰かに譲り渡そうとはいたしましたが。
貰い手がないのならば、いたし方がございません。
どこへでも行って、置き去りにしてくるよりほかにない。
犬もそれを察しましたか。
初めは抗うように激しく吠えたてておりましたが。
やがて、主人の胸に抱かれて家を出るころには。
悲しそうに、きゅんきゅんト、鳴いておりました。
長七は、まず、里の外れに犬を連れて行きまして。
「どうだ。今からでも考え直さないか」
ト、優しく話しかける。
「あれだって、お前と仲良くしたいんだ。あんなに邪険にすることもなかろう。今は少し気が立っている。お前さえ、以前のお前に立ち返ってくれれば、三人――いや、二人と一匹で仲良く暮らせるのだ。万事は丸く収まるじゃないか」
雌犬は、訴えるようにキャンキャンと叫ぶ。
しきりに長七の膝元にすがりますが。
長七にはその心がまるで伝わりません。
「そうか。分かってくれないなら、しかたがない。所詮、畜生は畜生だな」
そう言って、用意してきた縄で犬を道端の木に括りつけますト。
「いい子にしていろよ。でないと、拾ってもらえないぞ」
ト、その場を去っていった。
短い間とはいえ、床を共にした仲でございますから。
長七も鬼ではない、別れを忍び難く思って家路に就く。
やがて、わが家が見えてまいりますが。
そこで、驚いたことが起きました。
なんと、雌犬がハアハアと舌を出しながら。
門の脇から、こちらに向かって駆け寄ってくる。
いつになく嬉しそうな様子です。
どうやって縄を抜けて、しかも先に家に帰ってきたのだろうか――。
それはそれとしましても。
その深情けに、長七はむしろ背筋に冷たいものを感じまして。
今度は湊まで連れていきますト。
筑紫へ向かう西国船に、犬を乗せてもらって送り出す。
これでもうよかろうト、再び家路に就きまして。
女房にもこのことを話し、二人でやっと一息つく。
「それにしても、そら恐ろしい畜生だ」
「あなたが、情を掛けすぎたんですよ」
その晩は久しぶりに邪魔者がおりませんので。
夫婦水入らずで酒を酌み交わし。
夜半に床に入りました。
しっぽり濡れておりましたところへ――。
「あ、あなた――」
女房が震える手で夫の腕を掴みます。
無理もございません。
戸の外で、あの雌犬の激しく吠えたてる声が響いている。
まるで「開けろ、開けろ」ト、わめくかのよう。
長七は浴衣をひっかけて戸を開ける。
飛びかかってきた雌犬を抱きとめて、驚いた。
水でびっしょり濡れています。
それもただの水ではない。
塩気を含んだ味がほのかにする。
「お前、泳いで帰ってきたのか――」
その言葉に、寝間にいた女房が、狂ったように悲鳴を上げました。
「こうなったら、もう他に仕方がない」
長七も憑りつかれたように、顔を上気させまして。
六尺棒を手に取ると、雌犬の頭をめった打ちにした。
さすがの雌犬も、やがてぐったりといたしまして。
そのうちに動かなくなりました。
長七は犬が死んだのを確かめますト。
庭の木の根元に、死骸を埋めました。
こうして、ようやく夫婦の間には平安が訪れまして。
月日を重ねるうちに、妻が子を孕みました。
十月十日(とつきとおか)が経ちまして。
月満ちて、妻が産気づく。
難産らしく、五日ばかりウンウンうなっておりましたが。
ようやく生まれたのは女の子で。
玉のような――ト、言いたいところではございますが。
見た目は確かに女児に違いない。
人の形をしているのも確かでございます。
ところが、その手足、胴には、毛がびっしりと生えている。
産声も人のものとは思えない。
まるで子犬がキャンキャンと鳴くかのよう。
娘は生まれて幾日も経たぬうちに世を去りました。
その枕辺で、夫婦は涙に暮れまして。
こうなったのも、あの雌犬を粗末に扱ったからだ。
寺の墓地にでも、きちんと埋めなおしてやろう、ト考えまして。
例の木の根元を掘り返してみましたが。
そこには、なんと、全き人間の赤子が埋まっておりました。
それこそ、玉のように可愛らしい女児でございましたが。
青白い顔をして、やはり息はございません。
慌てて娘の死の床に戻っていって、見てみますト。
そこに横たわっていたのは、件の雌犬であったという。
そんなよくあるはなし――。
もとい、余苦在話でございます。
(「平仮名本 因果物語」巻六ノ三『家の狗、主の女房を、ねたみける事』ヨリ)