どこまでお話しましたか。
そうそう、盗賊に堕ちた官吏の子、李生が、気品ある少年から馬と荷とを奪い取り、崖から突き落として殺してしまったところまでで――。
李生は荒ぶる息を整えて、奪った荷を改めますト。
そこにあったのは、百反あまりもの綾絹です。
普段なら、喜々として飛び跳ねでもしそうなところでございますが。
李生はどうしても、例の書状が気にかかる。
まだ興奮で震えている手で、書状を開いて見てみますト。
それは特に価値があるとも思えない、単なる紹介状のようなものでございました。
趙という男が、旧知の仲に向けて書いたもののようで。
倅の栄斌が一年の遊学の後に、そちらへ向かうからよろしく頼むト。
おおまかに言えば、そんな内容でございました。
して見れば、少年はこの手紙を人に託して出した後で。
どこかへ遊学に出かけようとしていたところだったのでございましょう。
綾絹はその費用だったのかもしれません。
李生は一文にもならない書状のために。
少年と命を懸けて戦ったことがばかばかしくなり。
綾絹をさっさと売り払ってしまいますト。
荷の中に残っていた少年の書物に、何気なく目を落としました。
元はこれでも学問のあった李生でございますから。
どんな内容の書物かは何となく分かる。
それだけに、彼我の境遇の違いを身に沁みて感じてしまいまして。
己は一体、何をしているのだろうかト。
不意にそんな虚しい気分に襲われました。
「よし――」
ト、その時、立ち上がった李生が心に決めましたのは。
「どうせ殺してしまったのだ、俺が彼奴の代わりになってやろう――」
トいうことで。
つまり、己が崖から突き落とした少年、趙栄斌に。
己がなりすましてやろうトいう魂胆でございます。
それから李生は書状を人に託しますト。
突然、人が変わったように勉学に励みまして。
一年後に、書状の宛先である家を、大胆にも訪ねて行きました。
幸いにも、向こうは趙栄斌の顔を知らないらしく。
待ちかねていただけに、大歓迎をしてくれました。
趙栄斌になりすました李生は。
親同士の交わしたらしい約束により。
この地方高官の邸宅で学問をしながら。
科挙及第を目指すことトなりました。
李生は高官の庇護を受けて、学問に専念し。
科挙にも無事に及第いたしまして。
次第に出世し、若くして深州の録事参軍となりましたが。
その頃、成徳の軍に王士真ト申す猛者がおりまして。
この者は、生前に軍の帥であった、王武俊ト申す名将の息子でございます。
亡き親の威光と武威を頼りに、周辺地の郡守たちを恐れさせておりました。
その士真が巡検使として、深州にやってくることになりまして。
州の太守は非常に気を遣って、これを迎える準備をする。
もしや失礼などあってはならないト。
歓迎の酒宴も太守ひとりが相手を務めることにした。
ところが、いくら贅を尽くした歓待をいたしましても。
さすがに太守ひとりでは間が持ちません。
士真も次第に退屈になってくる。
「ここらで誰か、変わった話でもしてくれる客が欲しいところですな」
ト、士真が遠回しに言いました。
太守もその意を察しまして。
「ご覧の通りの辺鄙な在でございます。たいした人士もございませんが、録事参軍を務めます男が、もしかするとお気に召すかもしれません」
容姿も凛々しく、話術も巧みなばかりでなく。
酒も飲めば遊びもよく知っている、趙栄斌こと李生を。
太守はかねてから気に入っておりました。
「なるほど。そんな男なら、面白そうですな。ぜひ呼んでいただきたい」
そうして、録事参軍の趙栄斌が、大事な客の歓待の席に呼びだされましたが――。
栄斌は部屋に入って、席につきますト。
要人だという士真の顔を見て、思わず言葉を失った。
「どうかなさいましたかな」
士真が不思議そうに栄斌に尋ねます。
栄斌は血の気が引いてしまって、なおも言葉が見当たらない。
ない――。右の耳朶がない――。
武人らしくいかめしい表情を湛えているとはいえ。
それはまごうことなき、二十年前のあの少年でございました。
己が二十年前に崖から突き落として殺したはずの、あの少年――。
境遇の違いを見せつけて、己に惨めさを味わわせた、あの少年――。
本物の趙栄斌であるはずの、あの少年――。
それが今、王士真などと名乗って、武人として目の前に座っている。
しかも、李生を見て、動揺する気配もございません。
その晩の宴席は、妙な雰囲気のまま、やがて散会となりました。
夜。
李生は自身の部屋で寝ている。
しかし、眠れようはずもございません。
そこへ何者かが戸を叩く音。
李生は返事もできない。
客人は勝手に扉を開けて入ってくる。
「久しぶりじゃないか」
ト、枕元で低く響いたのは、王士真の声。
李生も観念して、床から起き上がる。
「お前、死んだのじゃなかったのか」
「死ぬものか。お前に借りを返すまでは決して死ぬまい」
士真はいやな笑みを浮かべて答えました。
李生は水差しの水を杯に注ぎ、気を落ち着かせようト、ぐいと飲み干す。
そんな李生に、士真が見下ろすようにして、語りかける。
「どうだ、趙栄斌の暮らし心地は」
「悪くない。おかげで今では末席ながら官吏の身だ」
「そうだろう。本来は俺が名乗るはずの名だったが、まあ別の名を手に入れられたから、それはよしとしよう」
士真の言葉に、李生は訝しげに眉をひそめる。
「お前は俺が趙栄斌だと思っているのだろう。無理もない。騙すつもりはなかったが、お前が勝手に勘違いしたのだ。俺もお前と同類よ。本物はあの前に俺に殺されている」
李生はびっくりして、思わず士真に訊き返した。
「そ、それでは、お前の本当の名は何だ」
「そんなものを知ってどうする。今は王士真だ。それでいいじゃないか」
唖然とする李生の反応を楽しむように。
士真はしばらく李生の枕元に立っておりましたが。
やがて、ケラケラと愉快そうに笑いながら。
部屋から立ち去って行きました。
残された李生はあまりのことに呆然としておりましたが。
いつまでもこうしてはいられません。
あの男がいると都合が悪い。
殺してしまわねばなりません。
しかし、おおっぴらに殺す訳にはいかない。
さて、どうするか。
「そうだ。明日の晩も宴会があるだろう。あいつは酒飲みらしかったから、毒でも混ぜて密かに殺してしまえばいい」
焦る心のなかでようやく考えをまとめた時――。
突然、李生の体中を痛みとしびれが駆け巡り始めました。
「しまった。水差しか――」
恨めしそうに、枕元の杯を見ていた目に。
次第に靄がかかっていきました。
己が引け目を感じて殺したはずの人間は。
初めからこの世にいなかったという。
そんなよくあるはなし――。
もとい、余苦在話でございます。
(唐代ノ伝奇小説「宣室志」巻三之十二『李生』ヨリ)