こんな話がございます。
いよいよ、妲己のお百(だっきのおひゃく)の悪行譚でございます。
大坂に雑魚場(ざこば)ト申す、生魚の市場がございまして。
問屋は軒を連ねており、仲買人も溢れんばかりの賑わいで。
江戸で申せば、まず日本橋魚河岸といったような土地でございます。
この雑魚場の外れに、新助と申す棒手振りの魚屋がございました。
棒手振りを生業トする者は、お得意先がなければなりません。
たらいに生魚を載せて、天秤棒で担ぎますので。
あてどなく歩いていては、あっという間に魚が腐ってしまいます。
ところがこの新助には、お得意というものがまだございません。
その日も、取り敢えず腐らぬうちに売りさばこうト。
あっちへこっちへ、盤台を担いで走り回っておりましたが。
ちょうど、件の桑名屋の裏手を通りかかった時のことでございます。
「お前、新助じゃないのかえ」
突然、店の中から聞き覚えのある声に呼び止められた。
振り返ると、勝手口から桑名屋のおかみらしき婦人がこちらを覗いている。
「ややッ。これは河内屋のお嬢様――」
新助がまだ幼い頃に、丁稚として奉公していた河内屋の娘、おきよでございます。
今では、この桑名屋に嫁入りして数年が経つと申します。
これが縁となりまして、新助は毎日、桑名屋へ魚を売りに来る。
ある時、おきよが折り入って話があるト、新助を座敷に上げました。
「うちは廻船問屋だろう。よく知っての通り、荷主の旦那衆を接待しなければならないことがある。そんな時にお酌でもしようというような、器量の良い、気の利いた娘をお知りでないかえ。いたら、ぜひ紹介して欲しいんだがねえ」
新助は「かしこまりましたッ」ト、二つ返事で請け負いましたが。
棒手振り風情が、そんな都合の良い娘を知るはずがございません。
さりとて、唯一のお得意ですから、失望させるわけにもいかない。
ウンウンと、ない知恵を絞っているト、ふと名案が浮かびました。
「そうだ。お百がいるじゃないか」
灯台下暗しとは、まさにこのことで。
新助には当年十四になる、お百ト申す妹がおります。
継母の連れ子でございますので、実際に血はつながっておりませんが。
幼い頃から仲良く暮らしてきましたので、お互いに実の兄妹と思って慕いあっている。
そのお百が、実は近所でも評判の別嬪でございます。
かと言って、器量を鼻にかけることもなく、誰からも好かれる性質でございます。
新助は早速家に帰りますト、
「かくかくしかじか――」
ト、お百にわけを話しました。
お百はお酌と聞いてあまり気乗りがしませんでしたが。
もはやこの世にただ一人の肉親となった兄の新助の頼みですから。
「兄さんがそう言うなら」
ト、これまた二つ返事で応じました。
新助にしても、お得意先の要望にうまく答えることができました上に。
安心できる奉公先へ妹を預けることができて、もう言うことはございません。
話がうまくまとまって、新助がほっと一息ついておりますト。
妹のお百は働き者でございますから。
「兄さん、ちょっと油を買ってまいりますよ」
ト、油差しを片手に家を出て行きました。
時は享保八年十二月。
暮れも押し迫った、黄昏時でございます。
路地の向こうの薄暗がりに。
ぬっと立っておりましたのは。
色の真っ黒い大きな坊主。
薄気味悪いと思いはしましたが、油を買って帰らなければ、家に明かりが灯りません。
お百はできるかぎり知らぬふりを装って、通りすぎようといたしましたが。
「お嬢さん――」
ト、すれ違いざまに黒坊主が呼び止めた。
お百はドキッといたしまして、そのまま過ぎ去ろうといたしますが。
「お嬢さん。あなた、桑名屋へ行かれるのでございましょう」
大坊主に言い当てられて、お百は再びドキッとした。
その瞳を、黒坊主の白い目がじっと見つめます。
お百は蛇にでも睨まれた気持ちになって、何も言えずに固まっている。
白い目がこちらをまばたきもせずに見つめている。
ト――。
そのまま、すーっと両の目が、吸い寄せられるように近づいてきた。
お百はびっくりして、「キャッ」と声を上げるなり、その場で気を失ってしまいました。
――チョット、一息つきまして。