どこまでお話しましたか。
そうそう、土地の役人の横柄さを孟が心の中で罵った時、猪のような黒い影が広間に入ってきたところまでで――。
燈火の下でその影がすっと消えた時。
孟は何かハッと胸を突かれたような気がいたしましたが。
広間の誰も、その影に気づいた者はいない様子でございます。
何がそうさせるのかは分かりませんが。
若者はどうにも気がそわそわとする。
その晩は、猪らしきものの影が頭にちらつきまして。
孟はなかなか寝付けませんが。
張の部屋からは、すでに高いびきが聞こえてくる。
孟はますます眠れない。
それでも夜が三更に及ぶ頃には、さすがにうとうとトし始めた。
ト――。
ドーン、ドーン、ドンドーン、ドーン――。
まるで大槌で壁でも叩いているかのような轟音が、張の部屋から響いてくる。
驚いた孟は飛び起きて、しばし呆然としておりましたが。
これはただ事ではないと感づきまして。
こっそりト扉の隙間から、張の部屋の方を覗き見ておりますト。
部屋の中から、二人の男が組み合ったまま、出てきました。
一人は他ならぬ張でございますが。
もう一人が只者ではございません。
全身に黒ずくめの衣をまとった、奇妙な男です。
これが、まるで張を親の仇のように、これでもかト撲りつけている。
孟はそっと戸の陰に隠れて、その様子を窺っておりましたが。
ふと、目を離した隙に、形勢がまるで逆転していたから驚いた。
横柄な役人の張が、涼しげな顔で乱れた着物を整えている。
黒ずくめの男は、いつの間にか姿を消しております。
張はざんばらになった髪を無造作に結い直しますト。
ひと汗かいたとでも言いたげな様子で、部屋へ戻って行きました。
やがて聞こえてくる、横柄な高いびき。
翌朝早く、張が下僕を連れて、孟の部屋へやってきた。
昨日とは打って変わって、丁重な物腰です。
身なりも端正に整えている。
「昨晩は酔っていたとはいえ、大変なご無礼をいたしました。申し訳もございません。お詫びの印に、これからご朝食でも一緒にいかがかと思いまして、参りました」
それから張は、旅店の者に言いつけて、部屋を別にとる。
二人はその別室で朝食をともにいたしました。
不思議な気持ちで孟が箸を進めておりますト。
張が不意に顔を寄せ、声を潜めて言いました。
「昨晩のことは、どうかご内密に願いたい。大変お見苦しいところをお見せいたしました」
そうして、沓の底から金の延べ棒を一枚取り出しますト。
孟に握らせて、念を押すように、目をじっとみつめます。
その手が、孟には妙にねばねばと、また腥く感じられました。
孟はなんだか嫌な予感がいたしまして。
会話もそこそこに朝食の席を立ちますト。
まだ、日も昇りきらぬうちに、宿を後にした。
なんだか――。
あの男は――。
俺自身のような気がする――。
そんな奇妙な妄念に取り憑かれまして。
孟は次の宿場へ向かう路を、息を切らせて急いでいた。
あの食卓で、自分をじっと見て手を握った男が。
どういうわけか、孟には孟自身のような気がしてなりません。
つい夜明け前まで、張であったあの横柄な小役人が――。
それから五、六里も行った頃でございましょうか。
向こうで、役人たちが道を塞いで、何やら詮議をしております。
「待て。無断で通りすぎてはならん。お前は、昭義からやって来たんだろう」
「そうですが――。それがどうかしましたか」
「人が一人殺されたのだ。もっとも、殺されても仕方のない男ではあるが」
役人がそうつぶやいたのを聞きまして。
どうしたわけか、孟の胸がどっと高鳴った。
「殺されたのは、どんな男です」
「なに、張という下っ端の役人だ。ばちでも当たったんだろう。身の程知らずに、威張り散らしていたからな」
話をよくよく聞いてみますト。
朝、取り巻きたちが張を馬に乗せて宿を発ちましたが。
張はいつになく精気のない顔をしていたという。
やがて、馬だけを残し、いつのまにか馬上から消えていた。
取り巻きたちは驚いて辺りを探しまわるが、見当たらない。
仕方なく、もとの宿の部屋に戻って探してみるト。
そこには、人ひとり分の白骨が。
崩れ落ちたように、積み重なっていたトいう。
骨の他には、血もなく、肉もない。
ただ、張の履いていた沓が、傍らに転がっておりましたがために。
それが張の遺骨であるト知れたト申します。
話を聞いた孟は、我知らずブルっと身震いをして、こう思う。
「ああ。あの黒い猪のような気の塊は、きっと俺の悪念だったに違いない」
ところが、そう考えたのは、実は孟ひとりではございません。
張の取り巻きの一人ひとりが、みな同じことを考えて、密かに恐怖に打ち震えていたという。
そんなよくあるはなし――。
もとい、余苦在話でございます。
(唐代の伝奇小説「酉陽雑俎」巻十五中ノ一遍ヨリ)