どこまでお話しましたか。
そうそう、江州枝村宿のとある宿屋に泊まった尼僧が、宿の亭主と契りを交わすところまでで――。
この宿の亭主は、久しい以前に妻を亡くしまして。
長年、男やもめを通してまいりましたが。
コトが済むと、何か穏やかな気分になりまして。
己の胸に顔を沈めた尼僧に、優しく語りかけました。
「この際、夫婦になろうじゃないか」
何がこの際なのかは知りませんが。
尼僧の方でも、これを承知する。
それからは髪を剃ることをやめまして。
幾月のうちに、すっかり俗世の女トなりました。
同じ頃、女は懐妊いたしまして。
十月十日の後に、元気な男の子を産みました。
二人で懸命に働きまして。
一粒種の倅を養います。
さて、この子が十二、三に成長したある日のこと。
宿場に十人ほどの一団がやってくる。
一行はこの宿屋に泊まることとなりました。
見るト、みな僧侶でございます。
その中に、いかにも徳の高そうな老僧がひとりおりました。
亭主は一行を歓迎して、足をすすがせ、座敷に通す、茶をすすめる。
倅が後からついてきて、給仕を手伝います。
「みなさまはどちらからお出でですかな」
ト、亭主がもてなしながら、一行に尋ねますト。
「こちらは、丹波の大野原の禅師でございます」
ト、弟子の一人が老僧を示して答えました。
そのやりとりを奥で妻が聞いておりまして。
ハッと胸を突かれたように驚き、途端に顔色を変えました。
衝立の隙間からそっと一行を覗きますト。
突然、わなわなト震えだした。
その日も暮方になりまして。
燈籠を出す時分になりましたが。
妻が亭主のもとに進み出ますト。
おずおずと、こう切り出しました。
「あなた。あのお方は私のお師匠様でございます。お会いしてお話をさせていただきたく思います」
亭主はなんのことだか、狐につままれたような気分になり。
妻の様子を見守っておりますト。
妻は意を決したように、装いを改めている。
やがて身支度が整いますト。
倅を先に立たせて、老僧の前に進み出ました。
「お師匠様。お久しぶりでございます」
師匠も、倅の姿を見たときから、何となく感づいていたようでございまして。
何も言わず、ただ、女の言葉を待ちました。
「この宿場に宿屋もあまたございますのに、こうして再会いたしましたのは、奇縁と申すよりほかございません」
そう言って、女は涙を流しますト、問わず語りに語り始めました。
「お師匠様は覚えてもおられますまい。私は、十八の年に越後より上京いたしまして、三年間修行をいたしました。然るに越後の実家に所用ができまして、お暇をいただき、その途上でこの宿に泊まることとなりました。その夜のことでございます」
そこまで回想いたしますト、かつての美僧は、ふと虚空を見つめて何やら怯えた表情をする。
「ふと、股ぐらがムズムズしたかと思いますト、次第に痛みを感じました。お恥ずかしい話ではございますが、私の男根が棍棒のように膨れ上がりまして、今にもはちきれんばかりでございます。ああ、あれだけ修行を積んだのに、己はやはり色を離れることができないのだと、悲しみに打ちひしがれておりました。ところが、そのまま痛みに顔を歪ませておりますと、腫れ上がっていた我が男根は、徐々に勢いを失っていきまして、あれよあれよと萎んでいきます。ただ萎むのではございません。まるで盛りを過ぎた桃の実が、腐って爛れて、あとは種ばかりとなるように、元の形を失っていくのでございます。途端に私は恐ろしくなりました。まるで自分が自分でなくなるような気がいたします。それもこれも、我執から離れられずにいた私への、仏罰だとは分かっております。己の男根にそれほどまでの執着を持っていたことに、遅まきながら気付かされました。それでも、当時の私は、その我執からやはり離れることができませんでした。萎んでいった男根は、そのまま肉の中にめり込んでいきまして、そこに女陰らしきものができました。私は大いに困惑いたしまして、男でいられなくなるのなら、いっそ女となってしまって、これからは女として生きていきたい。と、その女陰の形作られていくのを見守りながら、また新たな我執にしがみつくより他なかったのでございます。その時あたかも、この宿の亭主が情けをかけてくれまして。どうにか望みどおり、女として生きていくことができました。その後、子まで生まれまして、せっかく女として生きていく気持ちが固まっていたところへ――。お師匠様――。どうして、あなたはまたよりによって、この宿へ――」
かつて、僧侶だった妻は、そう言って泣き崩れました。
老僧は、かつての弟子を見やって、法を説く。
「変成男子(へんじょうなんし)ということは、この世に例のないことではない。肉身は地水火風空の五蘊(ごうん)が仮に和合したもの。本来が空(くう)であるところに、仮に男、女と、分かれて出現したものに過ぎぬ。されば、ある日突然、男が女になり、女が男になったとしても不思議ではない。そなたは自身に起きた変異を仏罰と申したが、そうではない。我々がこうして存在していることが、そもそも変異の一つなのだ」
老僧はそう言って諭しましたが。
かつての弟子の心は、すでにその時、それこそ空で。
宿屋の妻は、己の拠り所を失ったまま。
立ち直ることができなかったのでございましょう。
その晩のうちに、近くの川に身を投げてしまいまして。
この世から自らの存在を消し去ってしまったと申します。
男が女となり、女がまた、何者でもなくなってしまうという。
そんなよくあるはなし――。
もとい、余苦在話でございます。
(「奇異雑談集」巻一ノ二『江州枝村にて客僧にはかに女に成りし事』ヨリ)