どこまでお話しましたか。
そうそう、命の恩人美濃屋重兵衛の勧めで、桑名屋徳兵衛が甲府へ金策へ出かけていったところまでで――。
泊まりを重ねて徳兵衛が、甲府へやってまいりますト。
梶村ト申す相手の侍は、急なご用で身延へ発ったところだという。
そこで急いで身延へ追いかけていきますト。
今度は鰍沢へお出かけになったばかりだという。
鰍沢へ出かけていきますト。
今度は勝沼へお出かけになったばかりだという。
それではト、勝沼へ追いかけていきますト。
今度は韮崎へお出かけになったばかりだという。
ようやく二十一日目に、徳兵衛は韮崎で梶村トいう侍を掴まえました。
「なんだ。そんなことなら、屋敷の者に払ってもらえばよかったものを。今は手元にこれしかないから、あとは江戸で払ってやろう」
ト、六両に路銀の一両を渡されました。
徳兵衛はこの七両を後生大事に握りしめて、江戸を指して急ぎます。
およそひと月ぶりに、新橋の橋詰に差し掛かりまして。
時は同じく、四ツ刻でございます。
品川の鐘がボーンと鳴り響く。
「ああ、ついこの間、この鐘の音を聞いた時は、お百と二人で死のうとしていたっけ。落ちぶれたとは言え、美濃屋の旦那のお陰で何とか七両でも手に入り、一文無しから抜け出すことができた。これからまた死ぬ気で働いて、お百に楽をさせてやらねばなあ」
ナドと、感慨に耽っておりましたが。
命の恩人とは言いましても、ひと月もの長きに渡って。
女房を他人に預けているのは、気が落ち着かないものでございます。
徳兵衛はそこから駆け出しまして。
芝汐留の重兵衛の家へ向かっていきましたが。
重兵衛の家に着きますと、妙に静まり返っております。
夜目を凝らしてよく見るト、閉めた板戸に貼り紙が一枚貼ってある。
「か、貸家だと」
驚いた徳兵衛は、隣の家をドンドンと叩く。
中から、大工か鳶の者らしい男が、威勢良く飛び出してまいりまして。
「夜中に人の家の戸をドンドン叩きやがって。どこのどいつだ」
ト、すごい剣幕でまくし立てる。
「あの、隣りに住んでいた美濃屋重兵衛さんは、どこかへ引っ越しましたか」
「ああ、若いきれいな女と二人で、どこかへ越していったよ。あんな人じゃなかったがな」
「若いきれいな女と申しますと――」
「さあ、なんだか知らねえが、上方の女らしかったぜ。すぐに手伝いの婆さんを追い出して、美濃屋の旦那とずるずるべったりよ。昼間っから上方唄を歌って、旦那に酒を飲ませてさ」
まさかとやはりは紙一重でございまして。
桑名屋徳兵衛の心に、むらむらとお百への怒りが湧き上がってくる。
隣の家の男は、その様子を見て、ただならぬものを感じまして。
徳兵衛から事情を聞き出しました。
「そういうことなら、お前さん。屑屋にでもなるんだな」
「どうしてです」
「紙屑を拾って歩きながら、逃げた女房を探し出すんだよ」
それから、足掛け二年に渡り、徳兵衛は江戸中を駆けずり回りましたが。
どこへ逃げたものか、お百も美濃屋重兵衛も、行方を掴むことができません。
ある日、深川八幡前まで来たところで、疲れ切ってしまいまして。
床屋に入って順番を待ちながら、体を休ませておりましたが。
「おい、あれを見ろよ」
同じく順番を待っていた二人の男が、通りを見ながら囃し立てる。
「櫓下(やぐらした)で近頃評判の上方芸者じゃねえか」
「ああ、美濃屋小さん(こさん)だな」
「美濃屋」の名を聞いて、徳兵衛の胸がドッと高鳴りました。
二人の男を押しのけて、通りを覗いて見ますト。
男だてらに羽織をまとった、粋な芸者が通っていく。
随分なりは変わりましたが、女房のお百に違いない。
紙屑を入れた笊の中に、小刀がしまってございます。
これは、帳面などの一部を客が捨てる際に。
紙を切り取るために持ち歩いているものでございますが。
徳兵衛はこの小刀を懐に忍ばせまして。
通りを悠々と闊歩する、美濃屋小さんの後を密かに尾けていく。
やがて、辿り着いたは深川櫓下。
粋な格子造りに「上方唄 小さん」の御神燈が掛かっている。
小さんは中に入りますと、疲れた様子で畳の上に寝そべりました。
ト、その瞬間に――。
刀を掲げた徳兵衛が、ガラリと障子を開けて、中に入ってくる。
「お百ッ」
その声に驚いて、女が思わず振り返った。
「何をするんですよッ」
「何もくそもあるかッ。刺し身にしてやるッ」
徳兵衛は刀を振り下ろしますが。
元来が大店のぼんぼんでございます。
お世辞にも腕っ節は強くない。
振り下ろせば空振り、振り下ろせば空振りで。
そのうちに、女房のお百に反対に組み伏せられてしまった。
お百は徳兵衛を起き上がらせるト、ドンと胸を蹴飛ばしました。
徳兵衛が土間に叩き落される。
背中をしこたま打ちまして、徳兵衛はしばらく立ち上がられません。
「斬るなら好きにお斬りなさい。ただし、私にも言い分がありますよ」
「この期に及んでまだ言うことがあるか。あいたたた――」
「あなたは私が美濃屋の旦那とできているとでも思っているんでしょう。それが誤解ですよ。私は二十日以上も待っていたんだ。なかなか帰ってこないから、美濃屋の旦那に相談すると、甲府で金が手に入って、ひょっとすると大坂に一人で帰ったのかもしれない。他人の女房をいつまでも預かっておく訳にはいかない。路銀をやるから、亭主の後を追ったらどうだ、と言うんです。女一人であてどもなく旅に出るわけにもいかないでしょう。困っていたら、美濃屋の旦那が、それなら上方唄を磨いて芸者稼業でも初めたらどうだと、一から十まで世話をしてくださったんですよ」
それを聞いて、徳兵衛は急に己の嫉妬が恥ずかしくなりまして。
済まなそうに肩をすくめておりましたが。
それを見て取ったお百は、すかさず畳み掛けました。
「美濃屋の旦那は旅商人ですから、今後も当分は留守ですよ。これ以上、長居をして迷惑をかけるわけにも行かないから、置き手紙を残して今晩中に二人で大坂へ発ちましょう。ここの家はどうせ他の姉さんからの借り物だから」
それから二人は船が出る時間まで、久しぶりに夫婦水入らずで酒を酌み交わす。
徳兵衛は疑いもすっかり晴れて、心地よく酔ってまいりました。
ところが、どこからどの船に乗って大坂へ帰ろうというのか。
そんなことは徳兵衛はまるで知りません。
やがて時が迫り、お百が徳兵衛を促します。
「暗いなあ。それに足元が悪い。一体ここはどこだい」
「木場というんですよ。水の上に材木がたくさん浮かんでいるでしょう。江戸へ来て木場を見ないのは、大坂で船場を見ないのと同じですよ。向こうへ真っすぐ行けば、砂村の疝気稲荷ですよ。それから、向こうを行徳船が走ります。江戸へ塩を運んでくるんですよ」
などと、あちこちを指差しながら、案内をする。
徳兵衛は酔って千鳥足な上に、背中に妙に重い荷を背負わされている。
風呂敷包みを開ければ、みかん箱に石や瓦が詰め込んであろうとは。
お人好しのぼんぼんは、まさか夢にも思いません。
「あちこち、そう指を差さなくてもいい。背中の荷物に振り回されて、川に落ちてしまいそうだ」
「それなら、落ちておしまいよッ」
ト言って、突然、お百が徳兵衛の胸をドンと突きました。
「あッ」
ト声を上げて、徳兵衛は体勢を崩すと、そのまま水の中へドブンと落ちた。
「は、謀ったな」
「自業自得だよ。これ以上、お金の苦労をさせられてたまりますか」
「それでは、やはり美濃屋の旦那と――」
言い終わらぬうちに徳兵衛は、勝手に水の中へブクブクと沈んでいった。
やがて、材木の間から夜空へ飛んでいく一つの燐火。
「オヤ、徳兵衛さん。帰り道を照らしてくれるなんて、死んでもマメな人だねえ」
毒婦は亭主の人魂を、提灯代わりにして帰っていったという。
そんなよくあるはなし――。
もとい、余苦在話でございます。
(講談「秋田騒動 妲妃のお百」ヨリ)