どこまでお話しましたか。
そうそう、素人義太夫の常吉が、伊勢屋の後家との馴れ初めを語り終えたところまでで――。
常吉ののろけ話を聞いていた甚八は。
さぞ悔しがるかと思えば、そうではない。
どうもきまりの悪そうな、それでいて何か愉快そうな。
そんな嫌な笑みを浮かべている。
「いやあ、人間ていうのは当てにならないものだね」
「なんだ、やけに物知り顔をしやがって」
「せっかくののろけ話に水を差す訳じゃないが、なあ常さん」
「そうか、お前妬いてやがるな」
「妬きはしねえ。それどころか、人の心は恐ろしいなと思うのよ」
「もったいぶってねえで、はっきり言え」
常吉も甚八の意を汲みかねている。
「伊勢屋の後家さ。今日は本当はこの話を聞かせに来たんだ。いや、常さんがあの女ともう長いこといい仲なのは俺も知らないわけじゃない。だからこそ、こいつは知らせてやらにゃあと思って、いわば義侠心で俺はやって来た」
「何を格好つけやがる」
徐々に常吉の表情が固くなる。
「あれは四、五日前だったかな。酒に酔って夜道を歩いていたんだ。どこかの家の軒下で座り込んで休んでいると、裏の木戸が開いて男が一人出てきた。その後から女が出て来る。男のほうが何か恨み言を言っているらしい。『どうせ私は一時のお慰みなんでしょう』ってな。『何を言うんですよ』と女が言うと、『だって、あなたには常さんといういい人がいるじゃないですか』とこう言う。月明かりによく見てみると、驚いたね。伊勢屋の後家だったんだよ」
「馬鹿を言え」
ト、常吉は呆れた風を装うが、その顔つきはこわばっている。
「『私がそんな浮気心でお前さんと会っているとお思いかい。向こうは女房のある身。一時のお慰みにされているのは私だよ。いい加減にあの人とは縁を切って、早くお前さんと一緒になりたいと言っているじゃないか』とこう言うんだ。『だけど、急に切り出して刃物でも振り回されたらかなわないからねえ。もっとも、そんな度胸のある人じゃないけれど』とさ――」
常吉もさすがに動揺して、落ち着かない様子で話の続きを待っているト。
「おっと、いけねえ。俺はこれから用事があるんだった。まあ、そういうわけだから、あまり女を信用するもんじゃねえぜ。それじゃッ」
ト、甚八は逃げるようにして行ってしまった。
「お、おい。ちょっと、待て」
ト、呼び止めたときにはもう姿がない。
一人取り残された常吉は、馬鹿馬鹿しいと思いながら。
さっさと床を敷いてしまい、その晩は早く休もうとしましたが。
どうしても寝付かれない。
「あの女に限って、まさかそんなはずが」
ト、思いはいたしますが。
「いや、待てよ。そういえば、あの時――」
ナドと、今まで気にもしなかった些事が急に思い出されてくる。
「考えてみれば、あの時だって――」
次から次へと妄念が。
浮かび上がって、しかも消えません。
火のないところから煙は立たないと申します。
一度ついた嫉妬の火は、常吉の中で盛んに燃え上がり。
どす黒い煙となって、胸中に渦巻いた。
「あのアマ、男の顔に泥を塗りやがって――」
常吉はガバッと起き上がりますト。
台所に降りていって、出刃包丁を手に握り。
これへぐるぐるッと手ぬぐいを巻いて懐に入れる。
手酌で酒を二、三杯、あおるようにして飲みますト。
夜の闇の中へ駆け出していった。
ドンドンドン――。
ドンドンドン――。
いつもは軽くトントントンと三つ叩くのが合図でございましたところを。
戸を打ち破らんばかりに乱暴に叩くものですから。
伊勢屋の後家は大層驚きまして。
常吉の顔を見るや、思わずこう言ったのがまずかった。
「おや、どうしたんです。今日は来ないはずと思ってたら」
常吉は奥歯を思わず噛み締めまして。
懐から出刃包丁を取り出しますト。
手ぬぐいをくるくるくるっと解いて捨てる。
「このアマ、俺の顔に泥を塗りやがったな」
慌てて逃げ出す伊勢屋の後家を。
後ろから羽交い締めにいたしまして。
倒れたところへ馬乗りになり。
あとはもう前後もなくめった刺し。
騒ぎを聞きつけた近隣の者たちが。
慌てて届け出をいたしまして。
お役人が飛んでくる。
お召取りとなった時、常吉は心神喪失の体で立ち尽くしていた。
ところが、よくよく調べてみますト。
甚八の言ったことは、全くの作り話でございまして。
常吉があんまりのろけるものですから。
ひとつからかってやろうと、ふざけたまでで。
ところが、人殺しは罪が重い。
本来なら晒し首となるところです。
それでもお上の御慈悲とのことで。
一等減じて打ち首と相成った。
お白州に常吉が引っ立てられてくる。
正面に奉行が座っている。
「常吉、面を上げィ」
悄然とした髭面の常吉が、ぼんやりと奉行を見上げます。
「其の方、去る二十四日、伊勢屋の後家、お由なる者を殺害いたし、重き科(とが)にも行うべきなれど、お上のお慈悲を持って打ち首申し付ける。ありがたくお受け致せ」
常吉はもう、何もかも諦めきった様子で、力なく答えます。
「憎いと思う後家を殺しまして、もう一人殺したい奴もございましたが、今ではもう叶いませぬこと。もう思い残すことはございません。わたくしの心残りはたった一つ。後に残りし女房、子が。打ち首と、聞くならばあぁァ。さこそおぉォ嘆かんー。不憫やあぁァとおぉォォ」
ト、思わず得意の義太夫が出る。
我知らず聞き入っていたお奉行も、これには膝をぽんと打ちまして。
「よッ、後家殺しッ」
そんなよくあるはなし――。
もとい、余苦在話でございます。
(落語「後家殺し」ヨリ)