こんな話がございます。
平安の昔の話でございます。
西国から京へ上らんとする、若い僧がございました。
何をそんなに急ぎましたのか。
昼もなく夜もなく歩き続けまして。
やがて播磨国は印南野(いなみの)ト申す地に差し掛かりました。
今日も今日とて日が暮れる。
さすがにそろそろ休まねばト。
僧はどこかの家に一晩の宿を求めることにした。
とは言え、あたりは見渡す限りの野原でございます。
人家の灯らしきものがどこにも見当たらない。
月明かりを頼りに歩き続けますト。
遠い小山の麓に小屋らしきものが見えました。
取りあえず寝泊まりさえできればト。
僧は小屋に向かって歩いて行く。
ト、幸いなことに人が中にいる様子でございます。
「旅の僧でございます。一晩の宿をお貸しくだされ」
しばらくして中からのっそりと出てまいりましたのは。
一人の痩せぎすの老人で。
いかにも好々爺らしい表情で出迎えますト。
僧を小屋の中へ招き入れた。
「ほほう。筑紫からここまで。それはお疲れになったことでしょう。ちょうどいい。今日は珍しく獲物がございます」
ト、老人は心なしか得意げな表情で。
囲炉裏の火に照らされた小屋の中を見回してみますト。
弓矢や獣の皮などが乱雑に置いてある。
どうやら年老いてはいるものの、猟をして暮らしているようでございます。
「いや、お見せするのもお恥ずかしいですがな。寄る年波には勝てません」
ト、わざわざ土間から両手に抱えて持ってきましたのは。
小さな仔猪、俗に言う瓜坊。
「猪の親子を見つけましてな。こりゃ久しぶりの大物だわいと、弓に矢をこう、つがえて親猪を射止めんとしましたが、身動きがもう鈍いんでしょうなあ。矢をつがえている間に逃げられました。逃げ遅れたこれをようやく仕留めるのが精一杯で」
老人は瓜坊をドンと床に置き、
「今夜はこれを振る舞いましょう」
ト、大刀を手に取った。
若い僧はさすがに慌てまして。
「ご覧の通り、私は持戒の身でございます。肉喰はご遠慮いたしましょう」
それを聞いて老人は、とたんに寂しげな顔になる。
「やはり、若い方にはこの程度の肉では物足りないですかな」
「いや、そうではございません。私は仏に仕える身――」
「なるほど。かような穢らわしいものを、お出ししようというのが間違っておりました。しかし、私も何も食わぬわけには参りません。これからここでさばきますが、坊さまはかまわず、そこの菜飯を食べていてくださりませ」
ト、言って老人は釜から冷えた菜飯をよそって僧の前に差し出した。
僧は、ひとりで先に食べるのもナンですから。
老人が瓜坊をさばくのを取り敢えず見守るしかない。
床に静かに横たわる、すでに息のない仔猪。
老人が大刀を振り上げる。
久しぶりに猟をした実感が、その輝く目に溢れている。
老人はもしかすると、己が勇姿を。
誰かに見てほしかったのかもしれません。
腹にドスンと振り下ろされる。
ズッズッズッズッ――と、錆びた刀が腹を割く。
京へ修行に参る身が。
まさか黙って殺生を。
見守ることになろうとは。
己の情けなさと、老人への憐憫と。
板挟みにあって苦しむその心地が。
目の前の仔猪のやるせない姿と重なって。
そのうちにふと、何かを悟った気になった。
――チョット、一息つきまして。