どこまでお話しましたか。
高名な念仏聖が、己の過去を知る男に出くわし、山中で殺してしまうところまでで――。
三太は苦り切った表情で。
男の亡骸を見下ろしておりましたが。
やがて我に返ったものでございましょう。
慌てて男の着物を剥がし、谷に遺骸を蹴落としますト。
再び穏やかな念仏聖の表情を取り戻し。
男の荷物を背負って、悠々と峠の向こうへ降りていった。
それから山をひとつ、ふたつト越しまして。
暮れ方にある人里へたどり着きました。
「阿弥陀仏を勧める旅の法師でございます。どうか一夜の宿をお借りしたく存じます」
聖は人家の戸口に立ちまして。
出てきた老婆に合掌をする。
ところが返事がございません。
ふと、頭を上げて相手を見るト。
老婆はこちらを窺うようにジロジロと見ておりましたが。
「まあ、こんな立派な上人様をお泊めするなんて、もったいなくってハア」
ト、荒屋住まいを大いに恥じ入っている様子でございます。
それから夫らしき老人が出てくる。
聖は招き入れられて、粗末な晩飯でもてなされる。
「お宅はご夫婦の二人暮らしでございますかな」
聖が汁をすすりながら、何の気なしに問いかけますト。
「ハア。倅が一人おりまして、今日にも旅先から帰ってくるはずでございます」
好々爺らしい家の主人がニコニコとして答えます。
ト、その着ている衣を改めて目にして、聖は言葉を失った。
何の変哲もない狩衣ではある。
だが、その袖口に見覚えがある。
袖に珍しく色革が縫い合わせてある。
聖はハッと息を呑む。
気が遠くなる思いがいたします。
――昼間殺したあの男の衣と同じだ。
「おお、これですか。実は倅の衣でございましてな。これが繕ったのでございますよ」
聖が余り熱心に見るので、老人がみずからそう語りました。
老婆は――ト見るト。
部屋の隅に置かれた聖の荷物を、じっと不思議そうに見おろしている。
「上人様」
聖はびくっとして老婆を見る。
「汚れた衣がございますが、今晩のうちに洗っておきましょう。なに、火にかけておけば朝までには乾きます」
ト言って、荷物に手を突っ込もうとするので、
「待てッ」
聖は思わず声を上げた。
老夫婦は驚いて聖を見る。
「あ、いや。それを洗っては有り難みが薄れる。どうかそのままに」
ナドと、分かったようなことを言うよりない。
「ハア。何分、物を知らないもので」
ト、老夫婦は恐縮する。
聖はいたたまれなくなって、早々に寝床に入りました。
――天網恢恢疎にして漏らさず。
悪いことは出来ないものだ――
逃げるように目をつぶるト、そこに己が殺した男の死に顔。
だらしなく開いた口から、蓮の花が咲いて伸びている。
阿弥陀仏の極楽浄土を彩る花でございます。
その美しい花が魔の触手のように、どこまでも聖を追ってまいります。
どこまでも、どこまでも、地獄の果てまで追い詰められるようでございます。
――老婆は気づいているに違いない。
ふと、現(うつつ)に引き戻されてみるト。
そこにまた地獄が待ち受けている。
今頃、老婆は老爺に告げているのに違いない。
うちの倅はそりゃあ昔は悪かった。
しかし今は改心して真面目に働いているものを。
どこの馬の骨か知らぬ坊主が何の因果か――。
「なあ、爺さん。口惜しいじゃありませんかッ」
ト、老婆が涙ながらに訴える様が。
手に取るように脳裏に浮かぶ。
「倅の仇を取らずばなるめえ」
「悪い坊主です。いつ暴れだすともしれない。寝ているうちにやってしまってくださいナ」
「なるほど。婆さん、菜刀を出せ」
ナドと言って今頃、刃を研いでいるかもしれません。
いつしか額に汗が滲んでいる。
体が小刻みに震えている。
ふと、衝立に目を転じるト。
二枚並んだその隙間から。
じっと二人の細い目が。
こちらを見つめているような。
そんな気がしてなりません。
「やッ。あれは――」
徐々に夜目に慣れてきた聖の目に。
衝立の隙間を縫うようにして。
ぬっと突き出たある物が見えた。
青い月明かりを浴びてもなお。
赤黒く浮かび上がっている。
弥陀浄土に咲く蓮の花。
それが蛇のようにうねりながら。
こちらへ向かってまいります。
「やめろ。許してくれ、許してくれ」
「許すまじ、許すまじ」
蓮の花が怨嗟の声を上げながら。
聖の喉輪に絡みつき、締め上げる。
「許してくれ、許してくれ、許してくれ――」
聖は次第に気が遠くなる。
――翌朝。
老夫婦が目を覚ましますト。
衝立の向こうで寝ていたはずの上人様が。
床の中ですでに冷たくなっていた。
「ありがたいことだ。この家から極楽へ往生された」
「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏――」
何も知らない老夫婦は、傷一つない聖の尊体を、いつまでも拝んでいたという。
そんなよくあるはなし――。
もとい、余苦在話でございます。
(「今昔物語集」巻二十九第九『阿彌陀聖人殺人宿其家被殺語』ヨリ)