こんな話がございます。
阿波のご領主は玉木様でございますが。
昔、衛門之助様なる若殿が、色に堕ちたことがございました。
高尾ト申す傾城に、文字通り国を傾けられたのでございます。
その隙を突いてお家転覆を企てたのが。
小野田郡兵衛ト申す奸臣で。
騒ぎの中、今度は家宝、国次の刀が盗まれる。
国難に当たって、家老桜井主膳が召し出しましたのが。
かつて放逐された元家臣、阿波の十郎兵衛ト申す男でございます。
桜井主膳の密命を受けまして。
十郎兵衛とその妻お弓の二名は。
まだ幼い娘のおつるを、十郎兵衛の母に預け。
大坂へ宝刀探しに向かいました。
さて、それから幾年月が流れまして。
大坂の町には盗賊どもが跋扈している。
世に白浪、夜稼ぎと呼ばれる悪人たちの。
一味のうちに、銀十郎ト申す男がある。
浪花の町外れ、玉造にあるその隠れ家に。
女房がひとり、針仕事をしながら帰りを待っておりますト。
「もし、この状をお届けいたします」
ト、飛脚がひと声、書状を一通投げ込んだ。
女房が拾ってこれを読む。
「なになに――。夫銀十郎を始め、仲間の衆へも吟味がかかり、詮議厳しくなったる由。捕えられし者もあり。一刻を争う故、早々に立退け――云々とな」
女房はわなわなト震えだす。
捕縛されれば命がないが。
その命が惜しいのではございません。
「侍の家に生まれた夫十郎兵衛殿が、このままでは死んだ後々まで、盗み騙りと謗られてしまう。せめて刀を探し出し、忠義を果たして死ぬべきものを」
ト、嘆いておりますのは。
これぞ他でもない、十郎兵衛の妻お弓。
夫は主家の宝刀、国次の刀を取り戻すため。
密かに名を銀十郎と変えまして。
盗賊に身をやつしていたのでございます。
そこへ届いた追っ手の知らせ。
留守を守るお弓は、どうして良いものか分からずに。
ひとり右往左往としておりましたが。
「巡礼にご報謝願います」
ト、戸口に聞こえた愛らしい声。
見るト、白い巡礼装束を身にまとい。
小娘が戸口に立っている。
「おやまあ、可愛い巡礼さんだこと。どれどれ、ご報謝しんぜましょう」
ト、盆に白米を載せてやりますト。
「はい。ありがとうございます」
そう言って受け取る物腰が、あまりにけなげでございましたので。
「可愛らしい子ねえ。国はどこだい」
「はい。国は阿波の徳島でございます」
「へえ徳島かい。道理で訛りがどこか懐かしいと思ったら。わたしも生れは阿波の徳島だよ。とと様、かか様と一緒に巡礼しているのかい」
「いえいえ。そのとと様やかか様に会いたいばっかりに、一人で巡礼をしております」
言われてお弓は思うところがあったのか。
巡礼娘の顔の前に、ずずっと身を乗り出しまして。
「それは一体、どうしたわけじゃ」
ト、問い詰めるように尋ねますト。
「はい。どうしたわけかは分かりませんが、三つの年にとと様もかか様も、わたしを婆様に預けて、どこかへ行ってしまいました。それからわたしは婆様の世話になっていましたが、どうしてもとと様かか様に会いたい、顔が見たい。それで方々を尋ね歩いているのでございます」
お弓は娘の顔をじっと見る。
「そうかい。それで、親の名は何というんだい」
「はい。とと様の名は十郎兵衛、かか様はお弓と申します」
その一言を確かめますト。
お弓は言葉を失ってしまった。
見れば見るほど懐かしい。
見覚えのある我が子おつるでございます。
「おつるや――」
ト、どれほど声を掛けたかったか分かりません。
しかし、己も夫も今にも命を取られる身。
生半可に名乗りを上げて憂き目を見させるよりは。
このまま帰してしまったほうが、我が子のためかもしれません。
「おお、それはかわいそうに。しかし、可愛い我が子を置いていった親の心、よくよくのことであろうからな。ゆめゆめ恨みに思ってはなりませんぞ」
「いえいえ、なにを恨みましょう。小さい時に別れたものですから、顔さえ覚えておりません。よその子供たちがかか様に髪を結ってもらったり、夜に抱かれて寝るのを見ると、ああ、わたしにもかか様があったらと羨ましく思いこそすれ、恨む道理がございません」
殊勝にそう答えながらも、泣きじゃくっているその切なさに。
「それでは、あなた。こうなさい。おばさんがほら、路銀を上げましょうから、早く国へ帰って元気に暮らし、とと様かか様の帰りを待つほうがずっと良い」
針箱の底から、隠し持っていた豆板銀を取り出しますが。
「いえいえ、金なら小判というものを婆様から貰って、たんと持っております」
そう遠慮するのを無理に握らせて、
「ほら、早くお行き。おばさんも用があるからね」
ト、追い払うように急き立てましたが。
見送れば見送るほどに未練が募る。
ふと気がつくト、我が子の小さな後ろ姿が。
けなげに巡礼歌を歌っている。
「父母(ちちはは)の恵みも深き粉河寺(こかわでら) 仏の誓い頼もしきかな――」
哀切なるその調子に母はいたたまれなくなりまして。
「ままよ」
ト、我が子を追いかけてゆく。
――チョット、一息つきまして。