どこまでお話しましたか。
そうそう、崖の上で狐に悪戯をした宗介が、再び同じ場所へ戻ってくるところまでで――。
こんな時分に日が暮れるはずがない。
一体、どうしたことだろうかト。
まさに狐につままれたような心持ちで。
宗介はそれでも、家路を急いでおりましたが。
あたりはどんどん闇に包まれていく。
一寸先も見えぬほどの有様です。
鼻をつままれても分からない。
弱りきって、あたりを見回してみますト。
向こうの方に、灯りのついた一軒家がある。
こうなったら松明か提灯でも貸してもらうしかございません。
宗介は訳の分からぬまま、手探りでその家に向かっていった。
「もし、ごめんください。どなたかいませんか。ごめんください」
しばし、沈黙が闇を包み込む。
煌々と灯りはついているが、中に人の気配はございません。
宗介は一つため息を付いたが、トいってどうなるものでもない。
仕方がないので、勝手に障子戸をガラガラと開けますト。
中には八十ほどの老婆がひとり。
まばらな白髪を振り乱し。
背中を猫のように丸めている。
囲炉裏の火にじっと当たっているのでございます。
そうして、震える手で筆を握り。
不釣り合いに丈夫そうな白い歯へ。
一本一本、慎重に。
お歯黒を塗っておりました。
宗介は妙に思いながらも。
今はひとに構ってナドいられない。
「お婆さん。町から帰る途中で日が暮れてしまいましてな。松明か提灯があったら貸してもらうわけにはまいりますまいか」
老婆は何も答えません。
ぱちぱちト囲炉裏の火が燃える音が立つばかり。
老婆は一心不乱に鉄漿(かね)を塗る。
耳が遠いのだろうかト宗介は訝しがりつつも。
「婆さん。松明か提灯はあるかね。あったら貸してもらいてえ」
「松明も提灯もねえ」
振り返りもせず、老婆が一言答えました。
「弱ったな。それじゃあ、一晩だけここに泊めてもらうわけにはいかねえか」
「布団もねえし、もとより女所帯だ。泊める訳にはいかねえ。囲炉裏に当たるだけなら好きにしろ」
ト、相変わらず熱心に鉄漿を塗りながら老婆が言う。
宗介は黙って老婆と差し向かいに座りました。
それから永い時が経ちましたが。
老婆は一言も発しません。
ただ、雪のように真っ白い歯の一本一本に。
漆黒の鉄漿を丁寧に塗っていくばかり。
薪が徐々に尽きてゆく。
囲炉裏の火が段々小さくなってゆく。
あばら家の夜はどんどん冷えてゆく。
薪の準備らしきものはどこにも見えない。
火が燃え尽きたら、この家もたちまち闇。
老婆はどうするつもりなのだろうかト思いながらも。
宗介はただ相手をじっと見つめることしか出来ません。
老婆の白く生えそろった歯を。
黒く染めてゆく艶ある鉄漿。
筆先を見つめる丸い目玉。
その目玉が、眼窩の中で不意にぐるりト回りだした。
右へぐるり。
左へぐるり。
魅入られたように宗介は。
回る目玉をじっと見る。
ト。
――。
――。
「カネは付いたかッ」
唐突に老婆が裏返った声でそう叫び。
ヌイっと顔を突き出してきた。
鉄漿を塗り尽くした黒い歯が。
宗介の目の前にズラッと並ぶ。
「ワッ――」
ト、宗介は思わず後ろへ飛び退きますト。
その身は何故かそのまま宙を飛んでいた。
「あッ」
ト気づいて、下を見下ろしますト。
我が身はいつしか、かの崖の上から投げ出されている。
宗介はたちまち、深い淵の中へドボンッ。
突然のことに必死にもがきますが。
もがけばもがくほど、口から水がゴボゴボと入ってくる。
空には沈みゆくお天道さま。
そしてその夕陽を背に浴びて。
件の狐が崖の上から。
こちらをじっと見下ろしている。
「ざまあみろ。人間ごときが――」
やがて人間の若者は、深い淵の中へ力なく飲み込まれていったという。
そんなよくあるはなし――。
もとい、余苦在話でございます。
(奥州八戸ノ民話ヨリ)