どこまでお話しましたか。
そうそう、兄弟の名乗りを上げた捨丸に治三郎が波の白雪で斬りかかるところまでで――。
捨丸は抵抗する間もなく。
肩から血をドクドク流して悶えている。
治三郎は、さっとお縫の手を引きまして。
「さあ、逃げましょう。早く」
ト、連れ出そうといたしますが。
「ば、馬鹿をおっしゃい――」
意外にも女が激しく抵抗した。
その言葉に、ふと振り返りますト。
お縫の目が怒りに震えて待ち受けている。
「だ、誰がこんなことをしてくれと頼みました」
「し、しかし、あなたはこの賊に――」
「だ、誰が囚われているなどと申しました。私はみずから望んで、お、夫とともに暮らしていたものを」
お縫は奥歯を噛み締めている。
治三郎は愕然とした。
囚われの佳人を悪人から救うつもりでおりこそすれ。
まさか、良人の仇と恨まれるとは、想像だにしていなかった。
「誰が夫を、こ、殺してくれと頼みました。夫はあなたにまみえてから、あ、あれほど改悛していたものを」
震える声。
震える瞳。
お縫は治三郎を睨みつけたまま。
波の白雪をその手から奪い取る。
治三郎はとっさに止めようとする。
男の手を女は乱暴に振り払う。
さっと胸をはだけるや。
白い肌にズブっと突き刺さる鋭い切っ先――。
怨恨のたけを込めた眼差しが。
死ぬまで女の眼窩から発せられていた。
思いもかけない事態に、治三郎は狼狽する。
女の胸から刀を慌てて抜き取りますが。
美しいお縫は、もはや生き返りはいたしません。
刀身にべったりと付いた佳き人の鮮血。
その血をいたわしげに、着物の裾で拭いますト。
「ち、血が――。血が――。消えないッ――」
拭っても、拭っても。
白い肌を染めた真っ赤な血が。
まるで湧き出る泉のように。
刀を赤く染め続ける。
治三郎は恐怖に青ざめて。
逃げるように惨劇の家を飛び出した。
ところが――。
カチャカチャッ、カチャカチャッ――。
腰に差した名刀が。
今にも鞘から飛び出さんばかりに震えている。
カチャカチャッ、カチャカチャッ――。
カチャカチャッ、カチャカチャッ――。
まるで生き物のようでございます。
治三郎はゾッとして、気が気ではございません。
カチャカチャッ、カチャカチャッ――。
カチャカチャッ、カチャカチャッ――。
ビュンッ。
ト、ついに鉄砲玉の如く飛び出しますト。
目の前の木の枝に突き刺さった。
そこへ治三郎が走りこんでくる形となり。
すんでのところで首が斬り落とされそうになりました。
「ち、血が――。血が――。まだ消えないッ――」
事ここに至り、治三郎はようやく思い知る。
――なるほど、改悛すべきは己のほうだった。
兄治太郎の勝手気ままさを。
幼い頃から長い間、怨みもし、妬みもした。
汚れていたのは、己の心だ。
己はあの人の澄んだ瞳を。
治太郎に独り占めさせるのが口惜しいばっかりに。
ちっぽけな義侠心を気取って奪い取ろうとし。
かえって、あの瞳を怨嗟に染めてしまったのだ――。
治三郎は、その足で寝覚ノ床へと向かう。
石に枕し、流れに口を漱いで、三七、二十一日。
刀一振りを身に携えて、木曽川の水に身を清めますト。
古刀は元の美しい波紋を取り戻し。
無事に上杉家へ引き取られていきました。
のちに上杉家ご家中におきまして。
七家騒動ト呼ばれる覇権争いが起きた際。
刀身が赤く血の色に染まったト申しますが。
時の当主、上杉鷹山公が、精進潔斎をいたしまして。
不実の正義を振りかざした七悪人を処罰いたしますト。
波間に散る白雪の美しさが、刀身にたちまち戻ったト申します。
私怨に染まった義侠心が、佳き人の心を愛怨に染めてしまうという。
そんなよくあるはなし――。
もとい、余苦在話でございます。
(講談「名刀捨丸の由来」ヨリ)