こんな話がございます。
平安の昔の話でございます。
信濃の国の山あいに。
猟師がひとり住まっておりまして。
この者はすこぶる変わり者でございます。
世の人々と交わろうトいたしません。
人嫌いかト申すトそうではない。
浮世を疎んでいるわけでもない。
ただ、生来の無口にかまけているうちに。
年経てしまったのがそもそもの始まりで。
朝は早くから山へ入り。
猪や鹿を待ち伏せますが。
そう常に獲物にありつけるわけではございません。
手ぶらで山を降りる日が続きますト。
律儀に毎夕、家へト帰っていくことが。
徐々に馬鹿馬鹿しくもなりまして。
どうせ、親類縁者もございません。
近所に住む者も多くはない。
親しい者ナドもとよりない。
麓にあった住処は年々山奥へ移っていく。
山に起き伏しし。
山を彷徨い。
獣を追い求め。
獣に焦がれる日々でございます。
こうして、三十路を越した時分には。
すっかり世捨て人のごとき身の上となっておりました。
この世にこの男のあることを知る者は。
日々追われる鳥獣くらいではないかトいう。
己がまだ人語を忘れていないのが。
かえって不思議にさえ思われます。
「おーい」
ト、たまにこの寂しい猟師の者は。
谷間に向かって叫んでみるが。
返ってくるのは己を模した、
山彦の嘲る声ばかり。
さて、そんなある春のこと。
雪解け水が山奥深くから。
谷へ谷へと流れていく。
今日も今日とて、獲物に恵まれず。
夕陽を虚しく背に浴びながら。
猟師は住処の小屋へ戻っていく。
ト、その道すがら。
バタバタバタと騒がしく聞こえてくる突然の羽音。
はっと空を見上げるト、飛び立っていくひばりの群れ。
あの藪に獣がひそんでいるのに違いない。
そう思っているところへ、草むらから兎が三匹飛び出してきた。
猟師は慌てて矢をつがえるが。
このところ暇だったせいか、うまく狙いが定まらない。
兎たちは猟師のことなどお構い無しで。
駆けては立ち止まり、跳ねては立ち止まりで。
谷川のほとりまでやってきた。
どうどうト激流が轟音を立てて流れていく。
野兎三匹は怖いもの知らずでございます。
飛び石伝いに川を渡ろうとしている。
猟師は後ろから静かに近づいて、再び矢をつがえました。
「よし。今だ」
ト、弓を引き絞る手に力が入ったその刹那。
猟師は岩場に掛けた足を滑らせまして。
そのまま水にすくわれて、川面にひっくり返る。
たちまち激流に呑まれ、流されてしまいました。
それからしばらくは我をも失ってしまいまして。
どこをどう流されたのかも覚えていない。
ふと気がついたときには、浮きつ沈みつ。
きらめく空を水越しに、川底からぼんやりト眺めていた。
「ああ。俺は死ぬのだな」
猟師がそう思ったのも無理はない。
正気はあるにはあるものの。
体が言うことをまるで聞きません。
ただ残された時間をゆらゆらト。
揺らめく川面を眺めて、流されているばかり。
ト、諦めていたその時。
不意に水面が激しく波立った。
何者かが川岸からばしゃばしゃト。
音を立てて駆け寄ってきた気配がある。
次の瞬間。
猟師は水底から掬い上げられまして。
高く宙へ舞い上がりますト。
再び、川底へと叩きつけられた。
困惑する間もなく、再び背中から何かに掬い上げられる。
そして水底から空高く舞い上がり。
そのまま川底にバシャンと叩きつけられる。
何度かそれが繰り返されまして。
気がつくと川岸で伸びていた。
「なるほど。誰かが俺を助けてくれたのだな」
そう気づいて、ゆっくり目を開けますト。
こちらを覗き込んでいるのは人ではない。
体を五色に輝かせ。
頭には白い角を生やしている。
大きな鹿が一頭、猟師を見つめておりました。
この白い一本角で、水底から掬い上げてくれたのらしい。
――チョット、一息つきまして。