どこまでお話しましたか。
そうそう、谷川で溺れて死にかかっていた猟師が、五色に輝く鹿に命を救われたところまでで――。
猟師は驚いて身を起こそうとしますが。
まだ気が朦朧として動けない。
鹿は横たわる人間を悠然と見下ろすト。
踵を返し、鷹揚に立ち去っていきました。
その雄々しい後ろ姿。
美しく輝く五色の毛並み。
猟師は岸に倒れ込んだまま。
神々しさに目を奪われておりました。
「神だ。あれは山の神だ――」
それからというもの。
男の心には、かの五色の鹿の姿ばかりで。
あの美しい毛並みを人々が知ったらば。
きっと射殺されるに違いない。
人目を憚り、深山幽谷に潜むからには。
己は決してあの鹿のことを他言すまい。
そう心に誓ったその時から。
他方では葛藤が猟師を苦しめた。
あれ程に美しく神々しい鹿に。
死の淵から救われたことを誇りたい。
そんな心が頭をもたげてくるのでございます。
己は神に選ばれた男だト。
己にはそれだけの価値があるのだト。
だが、誇れば鹿の身が危ういばかりか。
元より誇る相手がどこにあろう。
やがて、猟師の心は。
煩悶に満ちていきました。
この時ほど己の孤独を。
恨んだことはございません。
それから半年が経った秋のこと。
土地の郡司が麓の集落にお触れを出した。
「この山中に住むなる五色の鹿を探し、奉らん者には、金銀珠玉等の宝を与ふべし」
どこで噂を聞いたのか。
五色の鹿を探し献上した者に。
褒美を与えるト申します。
この噂はやがて猟師の耳にも入り。
猟師をたちまち憤らせた。
何という愚かな郡司よ。
金銀財宝などと引き換えに。
あの五色の鹿の美しさを。
陵辱されてなるものか。
それからは毎日、気もそぞろで。
猟も手につかず、鹿の身ばかり案じている。
「もし、あの鹿が見つかってしまったら――」
麓の貧しい百姓どもが。
慣れない手つきで矢をつがえ。
美しい五色の毛並みを血で染める様が。
猟師には手に取るように思い浮かぶ。
猟師は思わず目を覆った――。
そして、さらにふた月後。
信濃の山に雪がちらつく季節となる。
猟師は山を降りていった。
「その方が最後にかの鹿を目にしたのはいつのことじゃ」
「はっ。毎日のようによく見ましてございます」
「お触れを出してからふた月になる。どうして、すぐに名乗り出なかったか」
「はっ。なにぶん山家暮らしなもので、お触れのことをつい数日前まで知らなかったのでございます」
郡司が訝しげに、馬上から猟師を見下ろした。
「まあ、良い。して、鹿がいつも水を飲んでいるというその淵まで、あと如何ほどじゃ」
「はっ。間もなくでございます」
郡司とその手勢を先導して。
猟師は山の中を分け入っていく。
――良いのだ。これで良いのだ。
もし己が手をこまねいていたところで。
鹿は早晩、奴らの手にかかってしまう。
ならば、射殺さずに必ず生け捕りにすると。
郡司に約束させるのが、まだしも鹿のためではないか。
己が鹿を目にしたのは、春のあの日の一度きり。
普段どこで暮らしているのかナド知りもいたしません。
猟師は嘘をついてでも、己の手で鹿を守りたかったのでございます。
ト、みずから考えるその一方で。
己はただ、鹿の美しさを知らしめたいだけではないのかト。
美しい鹿に救われた己を、衆人に誇りたいだけではないのかト。
そんな後ろめたい心持ちが、男を密かに苦しめた。
「ヤッ。郡司様。あそこに」
山中奥深く、道なき道。
崖に囲まれた谷川のほとり。
兵士の一人の叫び声に。
猟師が頭をもたげますト。
前方の崖の舞台の上に。
鹿が一頭佇んでいた。
眼下の小さな人間たちを。
憐れむように見下ろして。
――美しい。雄々しい。やはり、あれは山の神だ。
ところが、その美しさと雄々しさに垣間見える眼光が。
猟師には何か、己を睨みつけてでもいるように見えました。
「よし。矢をつがえよ」
「ま、待ってください」
郡司が手勢に合図する。
猟師は慌てて、馬上の郡司に駆け寄った。
「生け捕りにするとの約束ではございませぬか」
「かように険しい崖の上にいるのでは仕方がない。それとも、その方が崖を登って、生け捕りにしてまいるとでも申すか」
「登ります。きっと登って生け捕りにしてまいります。ですから、しばしお待ちくだされ」
猟師は郡司をなんとか説得いたしまして。
ひとり、険峻な崖に立ち向かっていく。
その姿を五色の鹿がじっと見つめておりました。
「待っていろ。決してお前を殺させはしまい。俺は郡司に約束させたぞ」
猟師は突き出た岩や石を足場にして。
少しずつ登っていきますが。
人間ナドは言うに及ばず。
獣ですら無理だろうという険しさです。
それでも、猟師は執念で。
崖の中腹まで差し掛かった。
下を見れば谷川の荒々しく急な激流が。
上を見れば崖の上に待つ鹿の神々しい姿が。
地上の人の目には己の姿が。
今どのように映っているだろうかト。
猟師が思わず酔いしれた時――。
「ええい。まどろっこしい。射れ、射れ」
「ま、待ってください」
たちまちに雨のような無数の矢が。
地上から逆さまに降り注いできた。
猟師の顔や体を危うくかすめては。
ブスブスブスッと土壁に突き刺さる。
猟師は恐怖で青ざめた。
鹿はそれを見るや、前足を勢い良く蹴り上げまして。
飛ぶようにして崖を駆け下りてくる。
崖の上から突進してくる五色の鹿。
その射るような眼光と。
白く長い一本角が。
みるみるうちに迫ってくる。
神々しい五色の毛並みが。
雨のような矢をことごとく撥ねつける。
迫りくるその威容に。
男はいつしか恍惚とした。
――ト。
ドーンと角に突き飛ばされて。
猟師は宙を舞いまして。
下を見るト、猛り狂った五色の鹿が。
郡司や兵士たちを蹴散らしている。
それから何がどうなったのか。
気がつくと猟師は、再びあの日のように。
川底をゆらりゆらりト流されていた。
一つ異なるのはあの春の日よりも。
水が冷たく澄んでいることで。
張りつめたようなその水面が。
不意にゆらゆらっト乱れます。
朦朧トする猟師の意識の中で。
視界に現れたのは、かの五色の鹿。
鹿は水中を一瞥いたしますト。
前足でつれなくまたいでいき。
後ろ足で男の腹を踏みつけて。
そのまま静かに去っていった。
その眼光が心なしか、所詮人間などこんなものと、蔑むように見えたという。
そんなよくあるはなし――。
もとい、余苦在話でございます。
(「宇治拾遺物語」巻七『五色の鹿の事』ヨリ。天竺ニテ伝ワレル原話ハ、「ジャータカ」(本生譚。=釈迦ノ前世譚)中ノ一篇『ルル前生物語』ナリ)