こんな話がございます。
木曽の山中、人里離れた静かな森に。
木こりが一人住まっておりまして。
枝木を伐って暮らしを立てているトいう。
貧しい山男でございましたが。
与市ト申すこの者は、三十路を過ぎてなお独り身で。
ト申しますのも、早くに二親に死なれてしまい。
父親の商いを、見よう見まねでやってまいりましたので。
もう十幾年も、今日食うのに精一杯で。
嫁取りはおろか、人付き合いもろくにしたことがない。
今日も今日とて、形見のナタを腰にぶら下げまして。
通い慣れた獣道を、奥へ奥へト歩み進んで行きますト。
突然、目の前にぱっと広がりますのは。
深い谷ト遠くの山々まで一望する。
崖の上からの景色でございます。
近頃、与市は毎日ここまでやってまいり。
日暮れまでずっと木を伐っておりました。
ここでナタをふるいますト。
カーンカーントいう甲高い音が。
谷底に大きく響きます。
するト、寂しく暮らす与市には。
その音が山向こうの見知らぬ里へ。
まるで己の存在を知らせてくれる。
鐘の音のように聞こえるのでございました。
「聞こえたらァ、誰かァ、返事をォ、してくれえィ」
時々、与市は谷に向かって。
そんな風に叫んでみることがある。
無論、誰も答えはしない。
しかし、その日に限りまして。
「はあァい」
ト、どこからトいうでもなく。
声が聞こえたのでびっくりした。
ガラガラといかにもおぞましく。
陰に篭った女の声。
「や、山姥――」
与市は腰を抜かさんばかりに驚いて。
思わず、ドスンと尻餅をつきましたが。
慌てて立ち上がるト、一目散に逃げ出した。
「お、俺も取って食われる――」
与市の父と母が死んだのは。
まさに山姥のためト言われておりました。
ある日、夫婦二人で山に入ったまま。
今日まで戻ってこないのでございます。
与市はほうほうの体で家に逃げ帰りますト。
誰も訪れない家に錠を下ろして閉じこもった。
するト、その晩のことでございます。
――トントン、トントン、トントン。
誰かが表の戸を叩く音がする。
「き、来た」
途端に与市はゾッとする。
体がワナワナと勝手に震えだす。
――トントン、トントン、トントン。
いつまでも戸を叩く音は鳴り止まない。
与市は目をつぶり、耳を押さえ。
ただ鳴り止むのを待っておりますト。
「もし――」
ト、聞こえてまいりましたのは。
思いもがけぬ若い女の声でございます。
「もし、誰もおりませんか」
か細いその声に拍子抜けがいたしまして。
錠を上げ、そっと戸を開けてみますト。
そこに立っているのは、十六、七の。
雪のように肌の白く。
品の良い娘でございました。
黒く長い髪をすべらかし。
うっすらト化粧を施している。
鄙では見かけぬその姿が。
しっとりト夜気に濡れていた。
外には立ち込める深い霧。
「よかった。道に迷ってしまいました」
ト、娘は言いながら。
細目に開いた戸の隙間に手を差し入れて。
ためらう与市の胸の内を押し開くように。
すっと戸をみずから開きますト。
「寒い」
ト言って両手に息を吹きかけた。
その息がふっと与市の鼻先にかかりましたが。
それが得も言われぬ、甘い甘い香りでございます。
「こ、こんな山奥を一体、何の用事で」
与市が訝しく思って問いかけますト。
娘は後ろ手で戸を閉めながら、
「明日になればお話いたします」
ト、さも悲しげに、伏し目がちな瞳で答えますので。
これは何か事情があるに違いないト。
敢えてそれ以上は問わないことにいたしましたが。
よくよくその言葉を考えてみますに。
この娘がここで明日を迎えるには。
ここで夜を明かさなければなりません。
「困ったな。こんな狭い家で」
ト、与市が弱ってつぶやきますト。
「どうぞお気遣いなく。私は眠りませんので」
ト、娘が察して申しますので。
与市は恥ずかしさもございまして。
さっさと己の分の床を延べて。
娘に背を向けて寝てしまいましたが。
ようやくうつらうつらし始めた夜半頃。
消さずにおいた囲炉裏の火が。
ふっと消えたのが分かりました。
そして、しばらくの静寂ののち。
スルッ、スルッ――。
スルッ、スルッ――。
何かが板敷きを這う音が。
ゆっくりこちらへ近づいてくる。
与市の胸がドッと高鳴る。
身は再びじっと固まっている。
ゴクリと生唾を飲み込んだその時。
夜具の端をスッと押し上げて。
中へ滑り込んできたものがある。
それは娘の冷たい肌で。
震える与市の肩をそっと抱き。
背中へぴたりト吸い付いた。
――チョット、一息つきまして。