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九十九の指と一つの首 指鬘外道

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どこまでお話しましたか。
そうそう、美男の修行僧鴦掘摩を、師の妻が誘惑したところまでで――。

やがて師が帰宅する。
夫妻の寝室に入るや、アッと声を上げた。

室内は物盗りにでも遭ったように荒れ果てている。
妻は寝台に倒れ込んで泣いている。
その衣服は切り裂かれ、長い髪が乱れている。

「どうした。何があった」

夫が慌てて駆け寄りますト。
妻はさめざめと泣きながら。

「鴦掘摩が――。鴦掘摩が――」

ト、後の言葉が続きません。

「どうした。鴦掘摩が、何だと言うのだ」

夫人はようやく重い頭をもたげますト。

「あなたが留守にしたのを幸いに、鴦掘摩が、鴦掘摩が――。私を手篭めにしようと――」
「なに、鴦掘摩が――」

妻の意外な告発に、夫は気が動転いたしました。

長年可愛がってきた愛弟子でございます。
その鴦掘摩が己の妻に乱暴を働こうとは。

妻と弟子とを一度に失ったような気持ちになり。
師は悲しみに打ちひしがれてしまいましたが。

それが女の謀略であろうとは露知らず。
悲しみは間もなく憎しみに変わる。

「――奴めを魔道へ落とさねばならぬ」

溢れる怒りを必死に抑えつけ。
師は鴦掘摩のもとを訪れますト。

息を大きくひとつ吐き。
神妙な面持ちで弟子に呼びかけた。



「鴦掘摩よ」

鴦掘摩は、あんなことのあった後でございますから。
師の顔をまともに仰ぎ見ることが出来ません。

「そなたの修行は完成しつつある。もはや教えることは何一つない」

鴦掘摩はこころを見透かされたような気持ちになり。

「我が師よ。私はまだ修行が必要な身でございます。現に今も心は千々に乱れ――」
「分かっておる」

ト、師が言葉を遮った。

「そなたに試練を一つ与える。これが最後の修行となろう」

師が弟子の目をじっと見つめた。
鴦掘摩は思わず目をつぶる。

「今すぐここを出て行け。夜が明けたらこの先の四ツ辻へ向かえ。そして、これで人を斬れ」
「ひ、人を――」

師から押し付けられた剣を抱えたまま。
鴦掘摩はしばし、その場で立ちすくんだ。

「良いか。一人斬っては指を一本切り落とせ。糸を通して首環にするのだ。陽が中天に至るまでに、百の指でその環を満たすが良い」
「な、なんと恐ろしい」

鴦掘摩の声は震えている。

「恐ろしかろう。しかし、考えてみよ。そなたの心には修羅が宿っている。そなたは己の心を乗り越えねばならぬ。修羅の心を超越してこそ、宇宙の真理、かの梵天と同一となれるのだ」

行け、ト一喝されまして。
追い立てられるように師の前を辞した。

――どういうことだろう、修羅の心とは。私は夫人の誘惑にも、懸命に平静を守り続けたつもりだが。

鴦掘摩は涙を零した。
しずくが頬を伝って唇を濡らす。

その時、青年の心にふと啓示が降りてきた。




――そうか。平静を守らねばならぬようでは、修羅の心を抑えつけているにすぎないのだ。私はあの時、ややもすれば、誘惑のままに夫人の操を犯していたかも知れぬのだ。

鴦掘摩はそう解釈した。

――修羅の心を解放することこそ、俗事を超越する唯一の手段と仰るのか。

しかし、そのように理解しても尚。
弱い心はいかんともしがたく揺らぎます。

「私が人を殺そうとは。人を、人を――。ああ、母上――」

鴦掘摩の心は右へ左へ揺れ動く。
徐々に揺れ幅は大きくなる。
ついに闇の梵鐘を心が捉え。
ボーンと強く打ち鳴らした。

黎明。

青年は剣をぐっと握る。
目をつぶり、疾駆する身が風を切る。
虎狼の如く、躍り上がる。

悲鳴が上がる。
子どもの声だ。
目を開ける。
血しぶきが眼の前を舞っている。

息を弾ませ、しゃがみこむ。
幼い骸から小さな指を切り落とした。

老人、若い女、屈強な若者、婆羅門、遊女、行商人――。

ありとあらゆる人間を平等に。
鴦掘摩は斬って斬って斬りまくった。
大小様々の指が、精悍な首の周りに満ちていく。
そして、陽が中天近くに至った頃――。

「あとひとつ。あとひとつだ――」

灼熱の太陽が照りつける。
青年の目は朦朧としている。
視界には斬り捨ててきた者たちの顔が。
陽炎となってゆらゆらと亡霊のように蠢いている。

「来い、来い。誰か――」

ト、念じておりますト。
フラフラとそこへ現れた最後の生贄。
鴦掘摩はしかし、我が目を疑った。

「は、母上――」

蜃気楼のように現れたのは。
紛うことなき己が母。

「おお、我が息子や。お前は一体どうしてしまったんだい」

母の涙を目に留めて。
冷血に染まりかけていた心が。
再び大きく揺らぎました。

しかし、鴦掘摩はすぐにかぶりを振った。

「いけない。これは幻だ。私を試しているのだ。そうだ、あれは陽炎だ。私は、今こそ、解放、される――」

口を真一文字に結ぶ。
目をきっとつぶる。
剣を振り上げる。
虚空を、斬る。

ト、まばゆい光が大波のように。
鴦掘摩の瞼を押し開けた。

眼前には、静かに合掌する修行者。
尊い姿に無量の後光が差している。
母の姿はどこにもない。

「しゅ、修行者よ、止まれ」

困惑し、恐れ慄いて、鴦掘摩は修行者に叫んだ。

「私はずっと止まっている。動いているのはお前の心、ただ一つだ」

尊い修行者は静かに答えた。

その瞬間に鴦掘摩は。
己の修羅から解き放たれまして。
首環を外し、剣を捨て。
膝から崩れ落ちました。

鴦掘摩はその場で出家して、仏の高弟となったという。

そんなよくあるはなし――。
もとい、余苦在話でございます。

(仏典「仏説鴦掘摩経」ヨリ。「アングリマーラ」ハ俗名。実名ハ「アヒンサー」ナリ)

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