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鰍沢(かじかざわ)

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どこまでお話いたしましたか。
そうそう、吹雪の中、あばら家に宿を求めた旅人が、昔なじみの花魁と再会したところまでで――。

「おい、お熊。帰ったぞ」

野太い男の声で、旅人は目を覚ます。
いつの間にか、奥の部屋に敷かれた布団の中で。
ぐっすり眠っていたようでございます。

「お熊、どこへ行った」

どうやら、亭主が帰ってきたらしい。
女はどこかへ出掛けたようでございます。
誤解をされてはかなわないト。
旅人は起き上がって挨拶に出ようといたしますが。

「お熊のやつめ、どこへ行きやがった。――ムムッ。なんだ、これは。燗鍋が掛かってる。おや、玉子酒じゃねえか。ちくしょう、亭主が山越えをして稼いでいる間に、女房は昼間ッから酒を食らってやがる。ン、まだ残ってるな。どれ、飲んでやれ」

ゴクゴクゴクと喉を鳴らす音。
プハァと息を吐くのと同時に。
ガタガタガタっと表の戸が開いた。

「おや。おまえさん、帰ってるのかい」

風の音とともに聞こえてきたのは。
月の兎花魁のか細い声。

「お、お熊。か、体が、し、痺れる――」
「ど、どうしたんだよ。そんなにのたうち回って」
「さ、酒――」
「お前さん。まさか、その酒を――」

ドタドタドタっと慌てて囲炉裏端へ駆け上がる音。

「お、お前。おれを、こ、殺す気か――」
「馬鹿だね。お前さんの酒なら、こうして買い直してきたんじゃないか。身延山へお参りに来た旅人が、わたしの吉原での馴染みだったんだ。それが三両包んでくれたんだがね、どうやら切り餅(二十五両分の包み)を二俵ばかり隠し持っているようなんだ。その酒にはね、お前さんがこしらえた痺れ薬が入っているんだよ」

亭主はウンウンと唸りながらのたうち回る。
旅人は隣の間で息を殺して身悶えする。
痺れ薬が体に回り、身動きがまるでできません。
芋虫のようにくねくねト、身をよじらせているばかり。

(ちくしょう。たった一晩契っただけの女の色香に迷ったばかりに――)

旅人は懸命に身をくねらせて。
少しでも障子から離れようとする。

瞼の裏に浮かぶのは。
あの二の酉の晩の花魁の姿。
夜空の彼方、月に住む兎のように。
遠い憧れのごとく思っていたが。

いまや、その艶姿には。
長い手足が生えており。
粘つく糸で網を張り。
男を捕らえて食らうトいう。

愛らしかった月の兎が。
もはや女郎蜘蛛のように思えてなりません。

旅人は懸命に身をくねらせて。
少しでも障子から離れようとした。

ト、力を振り絞った甲斐あってか。
体がドンと雨戸に突き当たる。
その拍子に戸が外へ向かって外れまして。
そのまま体は庭の雪の上に落ちた。

外はすでに蒼い夜。
月が皓々と照っている。
吹雪はやんでおりました。

右手がうまい塩梅に懐へ入り込んでいる。
旅人はとっさに思いつきまして。
懐から小室山の毒消しの護符を取り出しますト。
それを口に含んで、雪と一緒に呑み込んだ。

「野郎。気づきやがった」




女の毒々しい声が響く。
旅人はすがる思いでお題目を唱える。

「南妙法蓮華経、南妙法蓮華経」

毒消しが効いてきましたものか。
徐々に体が自由に動きだした。

旅人は雪の中をほうほうの体で逃げていく。
振り返るト、かのあばら家から。
女が飛び出してきたのが見える。

か細い腕に黒い鉄の筒。
火縄銃を提げておりますのが。
白い月明かりによく見えた。

雪に足を取られながら。
這うようにして逃げていく。
女のかんじきが雪を踏む。
慣れた足音がこちらへ迫ってくる。

「ヤッ――」

やっとの思いでたどり着いたのは。
富士川の急流を下に覗き見る。
断崖絶壁の、その縁で。

後ろに火縄銃。
前は断崖。
下を覗けば激流で。

見ればたくさんの材木が、筏のように繋げて浮かべてある。

ズドン――。

女の放った鉄砲が、男の耳をかすめていった。

足音がすぐそこまで迫ってくる。
荒い息遣いまでが聞こえてくる。

「ちくしょう。静かに暮らしていたものを――」

恨むような女の声。

ままよ。
旅人は意を決し。
筏めがけて我が身を投げた。

ぐるんト、宙で反転し。
背中から急流へ落ちていく。

崖の上――。

夜空に浮かぶ大きな月。
銃を構えた白い兎。

しかしその顔は、死に損なった女の悲哀と悔悟に満ちていたという。

そんなよくあるはなし――。
もとい、余苦在話でございます。

(三遊亭圓朝作ノ落語「鰍沢雪の夜噺」ヨリ。原話ハ「小室山の護符、玉子酒、熊の膏薬」ヲ題トスル三題噺ナリ。本来ノ「サゲ」ハ「お材木(お題目)で助かった」)

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