どこまでお話しましたか。
そうそう、死んだお貞の霊が取り憑いて、杏生の左耳が聞こえなくなってしまうところまでで――。
占い者の忠告に従いまして。
杏生は祭壇を設けてお貞の霊を慰める。
かつての罪を償うべく。
筆を執り、女霊に文をしたためた。
――お貞よ。
私はそなたを捨てたのではない。
そなたの死も、幾年も後まで知らされなかった。
私はそなたを今でも想っている。
妻は昨年、亡くなった。
今も私を想う気持ちがあるのなら。
どうかこの世に再び生まれでてきてほしい。
そうは思うが、私ももうこの年だ。
生まれ変わったそなたが成長した頃には。
私がこの世にいないかもしれぬ――
杏生が文を燃やしますト。
火の着いた紙が宙を舞い。
やがて灰トなって空に消えました。
それから次第に耳の通りが良くなりまして。
三年が経った頃には、すっかり聞こえるようになった。
その年は亡き父の十三回忌がございまして。
杏生は郷里へ戻って祭礼を執り行う。
その帰途で伊香保温泉に立ち寄りまして。
湯治をすることになりましたが。
その宿に、年の頃なら十六、七の。
いかにも山出しの下女がおりました。
起き伏しや三度の飯の世話を焼いてくれる。
甲斐甲斐しいその姿を見守っておりますト。
思い出されるのは、かの恋人お貞のことで。
顔立ちトいい、声色トいい。
物腰トいい、仕草トいい。
思えばお貞に似ております。
己を慕う眼差しまでが。
どこかお貞を思わせる。
その晩、杏生はなかなか寝付かれない。
夜が更け、あたりが静まり返る中。
床の中で本を読んでおりますト。
スーッとふすまが開く気配がした。
「旦那さま」
「なんだ。お前か」
振り返るト、暗がりに下女が控えていた。
「灯油を差しにまいりました」
許しを得て、下女がそろそろト入ってくる。
行灯に油を差す横顔をしばし見つめておりましたが。
「そっくりだ」
「何の話です」
「なに、私の知っている女にお前がよく似ているんだ」
するト、下女はゆっくりト杏生の方へ向き直りまして。
「わたしですよ」
ト、一声発しました。
「わたしです。お貞です」
下女はにっこり微笑んでいる。
その笑みに何か薄ら寒いものを感じました。
「お貞だと」
「そうです。あなたの文が嬉しくて、こうして出てきたんです」
行灯の火が揺れている。
ほのかな灯りに下女の幼い顔が浮かび上がる。
杏生は布団から出るト。
さり気なく後ずさりをした。
「左眼を患ったそうじゃないか」
「ええ。ずいぶん泣き腫らしましたもの」
気遣う杏生の言葉に、下女は目を伏せる。
物言いには何か含むところがある。
「どうして私の左耳に取り憑いた」
「ずっと呼び掛けていたんですよ」
「左の耳元でか」
「ええ」
杏生は思い浮かべてゾッとする。
己の左肩にずっと付きまとっていた女の顔。
「決して離さないと言ったでしょう」
顔を上げふたたび杏生を見る。
その目に凄みが籠もっている。
「生まれ変わってまた出会うまでが、わたしどうしても待ちきれなくて」
にこりト隠微な笑みを浮かべました。
杏生の額に冷や汗がにじむ。
「それで、よく似た女の体を借りました」
女は不意に思い出したように。
己の左眼の辺りをまさぐりだした。
「ある。この女にはまだある」
「何が」
「眼が。きれいな左眼が」
恨みがましく言ったかト思いますト。
頭に挿していた簪を抜き取りまして。
「やめろッ」
ト止めるのも聞かずに。
グサッと己が左眼に突き刺した。
簪の先からしたたる鮮血。
杏生は悲鳴とともに飛び退いた。
女は簪の刺さった眼を手で抑え。
のたうち回りながら迫ってくる。
「うぅ。ある。左眼が。この女には左眼がまだあるじゃないか」
「来るな。来るな」
杏生は狂ったように逃げ惑いながら。
女をあの世から呼び戻したことを悔いました。
情けは人の為ならず。だが決して、己の為にもならぬという。
そんなよくあるはなし――。
もとい、余苦在話でございます。
(石川鴻斎「夜窓鬼談」上巻『怨魂借体』ヨリ。原話ハ小泉八雲「お貞のはなし」ノ原拠ナリ)