こんな話がございます。
平安の昔の話でございます。
京の都のさる公卿のお屋敷に。
名を岩手の局ト申す女がおりましたが。
この者は姫君の乳母でございまして。
我が仕える姫君を、それはそれは大事に育てておりました。
ところが、この姫君ト申しますのが。
生まれつき病に冒されておりまして。
五歳になっても一向にものを話しません。
岩手は姫君が不憫で不憫で仕方がない。
そこである時、易者にこれを打ち明けますト。
いつの世も易者ト申しますものは。
無責任な輩ばかりでございますので。
「まだ女の腹の中におるままの、赤子の生き肝を食わせるより他にない」
ナドと吹き込んだ。
岩手は姫君が可愛くてなりませんので。
どうしても赤子の生き肝を手に入れたい。
その思いにすっかり取り憑かれてしまいまして。
生まれたばかりの娘を人に預け。
首には赤いお守り袋を掛けてやる。
「母岩手」ト書かれた形見の品。
「かかさまがおらぬとも、達者でおれよ」
母は赤子の生き肝を求める旅に出る――。
そうして諸国をさすらうこと数カ年。
岩手がたどり着きましたのが。
遠く陸奥国は安達ヶ原(あだちがはら)。
人里離れたあばら家にひとり住み着きますト。
子を孕んだ女が通るのをひたすら待った。
それから幾年が過ぎましたろう。
もはや執念だけが我が身を支えている。
大事な姫君のためトハ申せ。
岩手もすっかり老いさらばえた。
「生き肝――。赤子の生き肝を手に入れるまでは、死なぬぞえ」
白くなった髪の間から。
まだ黒い目をギロリとのぞかせて。
今日も獲物を待ち構えている。
ト、そんなある日のことでございます。
岩手の住むあばら家を、旅の若い夫婦が訪れた。
「妻が産気づいております。どうか宿をお貸しくださいませ」
男が息せき切って懇願する。
見れば、女の方は確かに腹を膨らませている。
岩手は思わず生唾を飲み込んだ。
「それはいけません。さあ、早く中へ」
優男(やさおとこ)の夫に、手弱女(たおやめ)の妻。
手弱女は大きな腹を抱えて苦しんでいる。
優男はおろおろトうろたえているばかり。
ふたりとも、見るからに鄙の者ではございません。
「わたくしは名を伊駒之助、妻は恋衣(こいぎぬ)と申しまして、人を探しにはるばる京から参った旅の途中でございます」
懐かしい都言葉に胸が締められる。
しかし、この機会を逃すわけにはまいりません。
「伊駒之助どの。もはや一刻の猶予もございませぬぞ。奥方は私が介抱しましょうから、川向うまで渡っていって、早く薬を求めてきてくだされ」
言われて伊駒之助は駆け出していく。
かような僻地に薬を売る者ナド。
あろうはずもございませんが。
騙されたとも知らずに恋衣は。
哀れ、うんうんト唸っているばかり。
「ご安心なされ。この婆アがいまに楽にして差し上げますぞ。やや子は間もなく生まれますぞ」
幾カ年も待ちわびた、孕み女が目の前にいる。
この日のために用意した、出刃包丁を取り出しますト。
はやる心を抑えつつ、万感の思いを込めて研ぎだした。
シャッ、シャッ、シャッ――。
シャッ、シャッ、シャッ――。
「そ、その包丁は」
恋衣もさすがに異変に気がついた。
「なに。いまに楽にして差し上げます」
孕み女は思わずのけぞる。
「ど、どうやって――」
「――こうやってさ」
岩手が出刃を振り上げる。
逃げ出そうとする女のその足を。
むんずと掴んで、振り下ろす。
足を切られた手弱女は。
バタバタともがくばかりとなる。
「だ、誰か、助けて――」
「ええい、静かにせぬか」
恋衣の体を掴んで引き戻し。
着物を乱暴に剥ぎ取りますト。
そこに大きな蕪のような白い腹が。
でんト顕わになりましたので。
血に染まった出刃の先を。
白いお山に突き立てる。
ツーっと一本、筋を引きますト。
ドクドクと鮮血が溢れてくる。
「わ、わたしのやや子――」
息絶え絶えに言う恋衣の声。
老婆は狂気に憑かれている。
避けた腹にずぶっト手をねじ込む。
生温かい血の沼のその中に。
肉の塊がぐにゃぐにゃ蠢いている。
産声を上げもしないそのやや子を。
喜び勇んで取り上げますが。
その時、ふと目に入ったもののために。
岩手は暫時、声を失した。
すでに息絶えた手弱女の。
首から掛かっているものは。
見覚えのある赤い小袋。
「母岩手」の文字がチラと見えた。
「母岩手――。そ、そ、そなた、どうしてこれを。まさか、そ、そなたは――」
ようやく手に入れた赤子から。
生き肝を抜き取りもせぬうちに。
ボタッ――。
血まみれの肉塊が、手からこぼれて床に落ちた。
「ひ、ひとを探しに来たと、も、申したのは――」
血に濡れたままの両の手で。
白い髪を掻きむしる。
その日を境に心も体も、岩手は鬼と成り果てた。
――チョット、一息つきまして。