どこまでお話しましたか。
そうそう、赤子の生き肝を求めて殺した女が実の娘と知り、岩手が人を喰らう鬼と成り下がるところまでで――。
光陰矢の如しトハ申しますが。
月日は瞬く間に流れ去る。
十年、五十年、百年と過ぎていきました。
さて、ある年の秋。
那智の東光坊の祐慶ト。
その従者らの一行が。
鈴懸衣の山伏修行で。
諸国を廻っておりましたが。
日がな一日歩いた末に。
安達ヶ原へ差し掛かる。
日はすっかり暮れてしまいました。
見渡す限りの寂しい野原。
人里はおろか、人家の一軒もありません。
宿を求めて歩きつづけておりますト。
ようやくあばら家がひとつ見えてきた。
今にも崩れそうな破れ戸を。
能力(のうりき。寺の下男)がドンドンと叩きます。
中から出てまいりましたのは。
皺だらけの陰気な老婆でございまして。
細く開けた戸の隙間から。
山伏たちを窺うように覗き見て。
不安げに眉をひそめますト。
「何の御用でございます」
ト、消え入るような声で一言答えました。
「旅の途中で寝場所もなく難儀しております。どうか一夜の宿をお貸しくだされ」
能力がそう懇願いたしますト。
老婆はさも弱りきった表情で。
「他を当たってくだされ」
ト、にべもなく断った。
「他に行く宛もないもので」
「婆アの侘び住まいでございます」
「決して邪魔はいたしませぬ」
「かように貧しい家へ、どうして貴い聖さま方を」
「夜露さえしのげればそれで構いませぬ」
ト、押し問答のその末に。
ついに老婆も押し切られ。
しぶしぶ板戸を開けましたが。
崩れた屋根のほころびから。
月明かりが差し込んでいる。
風は戸内を吹きすさび。
落ち葉をヒュルヒュル舞わせている。
確かに酷い住まいでございます。
「食べるものなどございませぬぞ」
きまり悪そうに老婆が言う。
「それでも、土間に立派な出刃包丁がございますな。この辺りでは肉を食うと見える」
能力が目ざとく見つけてそう言いますト。
「あ、あれは――」
ト、老婆がさっと表情を変えて口ごもる。
「これ」
祐慶阿闍梨(あじゃり)は能力をたしなめて。
「そこに何やら道具が置いてございますが、何に使うものでしょうかな」
ト、話題を転じてやる。
「糸車でございますよ」
「ほう。それは珍しい。ひとつ、秋の夜長の徒然に糸繰りをやって見せてはくれませぬかな」
老婆はうつむき、
「これは下賤の者の生業でございます。なんとお恥ずかしいことを仰せられる」
ト、言いながら、求めに応じて糸を繰る。
クルクルと音を立てて回る糸車。
「人の世に生を受けながら、毎晩こうして糸を手繰るばかり。憂き世をただ生きながらえるだけの、悲しい暮らしでございます」
老婆の嘆きに祐慶阿闍梨は
「心に迷いがあればこそ、糸車のように命は六道を廻り続けるのです。人の世はそもそも憂きものですよ」
ト、諭してやる。
「おお、寒い」
退屈した能力が、あくび混じりに体をさすりますト。
老婆はそれを見て手を止めまして。
「夜寒が酷うございましょう。火でも焚いて進ぜましょう。裏山へ薪を取りに行ってまいりますから、今しばらくお待ちくだされ」
ト、よろよろト立ち上がりはいたしましたが。
ふと、思い出したように一行を振り返り。
「その奥の閨(ねや)だけは、開けてはなりませぬ」
ト、不安げな顔つきで乞うように言う。
「ご案じなさいますな。ひとの閨を覗き見るような我々ではございませぬ」
老婆はそれでもなお不安げに。
振り返り、振り返り。
あばら家を出ていきましたが。
「あの婆ア、どうも怪しい」
老婆が出ていくや、能力が眉をひそめて言いました。
「奥の部屋になにか隠しているのではございませぬか」
「老いたとはいえ、女じゃ。閨を見られるのは恥ずかしかろう」
「そうでございましょうかな」
能力はどうしても腑に落ちない。
チラチラと奥の部屋を気にしておりましたが。
「これ、やめなさい」
ト、阿闍梨が止める声には耳も貸さず。
ついに、閨の障子をさっと開いた。
「こ、これは――」
そこに待ち構えていた光景は。
うずたかく積み上げられた白い骨の山。
中にはまだ人の姿を留めたものもございます。
腕や足はもぎ取られ、無造作に放り投げられている。
骨から削ぎ落とされた肉。
骨にまだ残った肉。
干からびた赤黒い血。
明らかに人間が食べられた跡でございます。
「お、鬼だ。あの婆アは鬼女だ」
恐ろしさのあまり、震えだす。
「『陸奥(みちのく)の 安達が原の黒塚に 鬼籠もれりと 言ふは誠か』。いにしえの歌に歌われた黒塚の鬼女じゃ」
真っ先に逃げ出したのは、祐慶阿闍梨で。
従者たちがその後に、震える足で続かんとする。
ト、そこへ――。
「見たか、見たか――」
打って変わって憤怒の表情。
目玉をひん剥き、牙を剥き。
白髪振り乱し、怒髪は衝天す。
咆哮するような鬼女の声。
慌てて逃げ出す山伏たちを。
疾風の如く追いかけてくる。
「あれだけ見るなと申したに――」
辱められた鬼女の怒りは。
炎となって燃え盛る。
炎は風を巻き起こし。
雲が夜長の雨を呼ぶ。
辺りは突然の大嵐。
天を切り裂く稲光。
「ううっ。ひどい殿原方じゃ。ひとの性(さが)をむやみにほじくり返しおって」
ずぶ濡れの鬼女の目には血の涙。
「そうじゃ、わしは鬼じゃ。ひとの肉を食らう鬼女じゃ。どうして放っておいてくれぬのじゃ」
一口に喰らいつかんト。
迫りきた鬼女が、鉄杖を振り上げる。
風が辺りをなぎ払う。
祐慶が取り出したるは如意輪観音。
「東方に降三世明王。南方に軍陀利夜又明王。西方に大威徳明王。北方に金剛夜又明王。中央に大日大聖不動明王。オンコロコロセンダリマトオギ、オンナビラウンケンソワカ、ウンタラタカンマン。見我身者発菩提心。見我身者発菩提心。聞我名者断悪修善。聴我説者得大智恵。智我身者即身成仏。即身成仏と明王の繋縛にかけて、責めかけ責めかけ、祈り伏せにけり。さて懲りよ」
ダーンと轟く大雷鳴。
稲光が鬼女の体を貫いた。
あれほど猛り狂っていた鬼女が。
途端に弱り果て、よろよろト揺らめいた。
「恥ずかしい。恥ずかしい。浅ましい――」
その声は陰に籠もっていっそう凄まじく。
夜の嵐の音に紛れるように、徐々に徐々に消えていったという。
そんなよくあるはなし――。
もとい、余苦在話でございます。
(奥州二本松ニ伝ワル黒塚伝説及ビ、ソノ派生作品タル謡曲「安達原(黒塚)」ヨリ)