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怪談乳房榎(一)落合の蛍狩り

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こんな話がございます。

馬場で知られます高田の砂利場村に。
大鏡山南蔵院なる寺院がございまして。
これはその天井に墨絵で雌龍雄龍(めりゅうおりゅう)を描いたという、
絵師菱川重信の話でございます。

重信は年三十七、元は秋元越中守の御家中で。
名を間与島伊惣次(まよじま いそうじ)ト申す武士でございましたが。

生来、絵が好きなものですから、じきに堅苦しい勤めが嫌になる。
みずから暇を申し出まして、柳島の新宅に引き籠もりますト。
爾後、絵ばかり描いて暮らすようになったト申します。

妻は年二十四、名をおきせト申しまして。
これが大変な美人でございます。
役者の瀬川路考演ずる美女に似ているト。
誰言うとなく「柳島路考」ト呼ばれるほどで。

さて、この重信に、ある時お弟子が一人できました。
名を磯貝浪江(いそがい なみえ)ト申す、年の頃二十八、九の浪人で。
鼻筋が通って色は浅黒く、苦みばしった佳い男でございます。
師匠重信の高名を伝え聞き、是非ともト志願入門したのでございました。

この浪江ト申す男は絵も熱心に学びはしますが、そればかりではない。
諸事に渡って如才なく立ち回る男でございまして。
師匠夫婦の倅、赤ん坊の真与太郎を何かにつけて可愛がる。
お内儀のおきせも、しきりに浪江を褒めそやしておりましたが。

ちょうどこの頃、南蔵院の檀家衆から。
重信は、寺に絵を描いてくれト頼まれる。
それではト、かねてから案を練っておりましたところの。
雌龍雄龍の墨絵を天井に描くことにいたしまして。

なにぶん、大作でございますから。
広い本堂に連日泊まり込まなければなりません。
下男の正介ひとりを連れまして。
しばらく家を空けることトなりました。

時は五月の初め、初夏のことでございます。

浪江は、お内儀や真与太郎が寂しかろうト。
留守を訪ねては母子と下女を楽しませる。
それを聞いて、師匠の重信もすっかり安心いたしまして。
しばらく仕事に打ち込んでおりましたが。

それからひと月ばかりが経ったある日のこと。
南蔵院の本堂に浪江が一人で現れました。
手には菓子折りを包んだ風呂敷を提げている。

「この雄龍は実に凄まじい勢いでございますな」
「未だかつてどんな絵師も、雌雄の龍を描き分けた者はないのだ。ようやく雄龍が仕上がった。今に雌龍も出来上がる」

感心して見上げる浪江に、重信は誇らしげに答えます。
それから二人は久しぶりに、積もる話に花を咲かせておりましたが。
やがて浪江はそそくさと立ち上がり、帰り支度をいたしますト。

「わたくしは早稲田の親類の家に用事がございますから、今日のところはこのへんで」
「そうか。また来い。おきせや真与太郎のことも頼んだぞ」
「はい。実はわたくしの方でもお願いがございまして」
「なんだ。言ってみろ」
「下男の正介殿をお借りしたいのですが」
「そんなことか。わけはない。これ、正介」

ト、呼ばれて、正介は浪江について寺を出る。
二人は馬場下町の料理屋へト入って行きました。

「なんだね。浪江さん。わしに用たあ」
「まあ、そう急ぐなよ。まずは飲め」

ト、浪江はしきりに酒を勧めます。
正介はこんな立派な店で飯を食うのは初めてですから。
たちまち良い心地に酔いが回ってくる。
浪江はそれを見計らうト、正介をじっと見つめまして。

「実は正介どん。今日、お前に来てもらったのは他でもない」
「なんだね」
「俺と叔父甥の盃をしてもらいたい」

唐突にそう言って、猪口を盃洗で濯ぎますト。
酒を並々と注いで正介と己の間にトンと置いた。
正介は突然の申し出に大いに困惑いたしまして。

「叔父甥だって。一体、誰が叔父だね」
「それは、年長のお前が叔父に決まっているだろう」
「しかしお侍のお前さんが、どうして百姓のわしなんかと叔父甥に――」
「お前は俺が立派な侍と思っているかもしれないが、所詮は浪人だ。身寄りもない。このままじゃ先は知れている。幸い、金子は少々蓄えがあるからな。田地を買って悠々自適に暮らしたいのだ。ところが、俺は弓馬の道は知っていても田地のことはてんで知らない。そこで、百姓のお前に親類になってもらいたいのだ。どうだ、嫌か」




ト、迫るように正介を見た。

「あんまり人をからかうもんじゃねえ。浪人に身はやつしてもお武家はお武家だ。わしなんかと釣り合うわけがねえ」
「いや、それが釣り合うのだ」
「どういうことだ」
「下女のお花から聞いてすっかり知っているぞ。練馬の赤塚村の出だってなあ。お前も親類がみな死に絶えて、今では身寄りがないんだろう。俺はきっとお前の死に水を取ると、もう心に決めてあるのさ」

馬鹿正直な正介は、浪江の言葉に思わずグッと迫るものを感じまして。

「今時の若い者にしては、たいしたもんだ。えれえよ」

ト、猪口にスッと手を伸ばしましたので。
浪江はすかさず身を乗り出す。

「叔父甥の固めだぞ。いいな。承知するんだな」

ト、念を押しますト。
正介は頷いて、ぐいっと飲み干しました。

「よし。これで叔父と甥だ。こうなったら、俺は腹蔵なく叔父さんに何もかも話してしまわなければならない」
「ああ、何でも言うがええだよ」
「それじゃあ言うが、俺はご新造と密通をしたのだ」
「馬鹿を言うでねえ。ご新造様はお前みたいな色の黒い男は嫌いだよ。やっぱり、わしをからかう気だな」
「いや、ご新造の方で俺に惚れたのではない。俺が無理に言うことを聞かせたのだ」

浪江の眼差しがあまりに真に迫っておりますので。
正介もこれは戯言ではないト、ようやく気づいて目を見開いた。

「お前さん。なんて、えれえことを――」
「驚いたか。俺が先生の弟子になったのも、全てはおきせ殿を我が物にせんがためだ。一度でいいからと力ずくで口説き落としたが、一度が二度、二度が三度となるうちに、今ではご新造の方から俺を可愛がってくれるじゃないか」

正介はますます驚いた。

「ところで、南蔵院の天井の絵だが――」
「龍の絵が急にどうしただ」
「雄龍はもう描き終えて、雌龍もまもなく仕上がると言うな」
「ああ、そうだ」
「あれが仕上がってしまえば、先生はご帰宅なされる。おきせ殿がそれを心配されている。そこで正介、いや、叔父さん。お前さんに頼みがある」

正介はお内儀の変心を聞いて気が動転しておりますので。
とても頼みを聞くどころではございませんが。

「先生をお前が連れ出してくれ。俺が人知れず殺すから」

ト、言われて、酔いが一気に覚めました。

「こ、殺すだと。馬鹿を言うんでねえ。わしは旦那様が秋元様のご家中で二百五十石取って、間与島伊惣次と名乗っていた時から九年間も奉公しているだ。ど、どうして己の主人を殺すことができるかね」

突っぱねるその声が震えている。
するト、浪江は途端に凄みまして。

「おい。俺にここまで何もかも喋らせておいて、出来ませんで済むと思うのか。俺も武士の端くれだ。恥をかかされたからには、この場で腹を切る。いや、叔父甥の盃を交わした仲だ。聞き入れられぬなら、お前と刺し違えて一緒に死ぬ」

ト言って刀の鯉口を切りますから、正介はブルブルブルブル震えだした。

――チョット、一息つきまして。