こんな話がございます。
平安の昔の話でございます。
大江定基(おおえのさだもと)と申す男がございました。
文才に恵まれ、将来も嘱望されておりましたが、ケチのつき始めは女でございます。
ある時、とある若い女と知り合うや、すっかり魅入られてしまいまして。
ちょうどその折、三河守に任じられますト、妻を離縁し、この女を連れて赴任しました。
元の妻がそんなに悪妻だったのかと申すト、そういうわけではございません。
それなりの家柄の娘で、品も良く、また性質も穏やかでございます。
年をとっているのかト申せばそんなこともなく、どちらかと言えば若い方で。
器量が劣るのかト申せば、やはり人並み以上の美人です。
では、新しい女のどこがそんなに良かったのかと申しますト。
これは一種の女妖でございます。
顔立ちは美しいというより、愛らしいといった方が的確で。
どこか幼く、チョット見るとまだ子どものようでございます。
いつもわがままを言って男を惑わしますが、どうしても憎めない愛嬌がある。
そのくせ、物言いや居住まいの一つ一つに、年不相応な艶かしさがありました。
これは、女が悪いのではない。
取り憑かれた男が悪いのでございます。
ところが、三河国に着いて幾らもしないうちに、この女が煩い付いてしまいました。
いつもあどけない笑みを浮かべていた顔に、苦悶の表情が浮かんでおります。
額には冷や汗をかき、苦しい、苦しいト、助けを求めてうなされている。
定基は我が子を思う父のように、女が不憫でなりません。
任務も放り出して、毎日、女に寄り添っておりましたが。
必死の看病も虚しく、やつれた末に死んでしまいました。
定基はその死がどうしても信じられない。
いや、受け入れられないのでございましょう。
人の忠告も聞き入れず、いつまでも野辺送りをしようとしない。
亡骸を家に寝かせたままにして、夜も昼もそばを離れない。
定基は悲嘆に暮れながら、必死に語らい続けました。
そうしていればいつか魂が肉体に戻るのではないか。
ト思ったのかもしれませんが。
無論、死者が蘇ることなどございません。
定基はやるせなさのあまり、つい女の口に口を押し当てて吸ってみた。
その冷たいながらもまだ柔らかい感触に、魂を奪われたのは定基のほうでございます。
それまでの嘆き悲しみが、嘘のように晴れていく。
その不思議な悦楽に、一日中、女の口を吸い続けておりました。
それから徐々に心も落ち着いてまいりまして。
ようやく食事や睡眠もきちんと取るようになる。
政務にも復帰して、周囲もこれで安心しました。
傍目には愛妻の死を乗り越えたかのように見えましたが。
仕事が終わると急ぎ帰宅し、亡き妻に語りかけながら口を吸う。
それが日課となっておりました。
ところが、ある日、いつものように優しく言葉をかけつつ口を吸いますト。
むうっと、悪臭が口に立ち上って五臓六腑に沁みわたりました。
定基は思わずのけぞって、嘔吐する。
それもそのはず、妻が死んでからもう幾日も経っております。
定基の目にはそう映らなくとも、実際に腐敗は進んでいる。
むしろ、よくぞここまで耐えられたト、褒めてやりたいくらいのもので。
これでやっと目が覚めましたのかどうか。
ようやく妻を弔い、亡骸を葬りはしましたが。
今度は妻の死臭のおぞましさが、忘れられなくなりました。
――チョット、一息つきまして。
コメント
入道は何を思い、何を味わっていたのか。出家僧がかつての屍との悦びを再び思い出したとは、ちょっと考えにくい。であれば、元妻からの仕打ちも含めて、入道はその先に何かを思っていたのかもしれませんな。
実は、今昔物語にも同じ話が収められているのですが(宇治拾遺物語版は、今昔物語版から前半部分を切り取ったもの)、当該部分はどちらも「元妻の仕打ちにどう答えるのか」が主題になっております。
入道は何を思ったんでしょうナ。