こんな話がございます。
昔、陸奥国は遠野ト申すところに、三人の兄弟がおりました。
仮に上から、太郎、次郎、三郎トいたしますが。
太郎は四十を超えておりましたが、いまだに独り身でございまして。
長男である手前、顔にこそ出しはしませんでしたが。
内心、このことをひどく気に病んでおりました。
次郎は若いうちに美しい妻を娶りまして。
子宝にも恵まれて、夫婦仲も非常に良い。
本人も、身持ちの固い男でございます。
三郎は兄二人とは年が離れておりまして。
これはまだ三十にもなりませんで、やはり独り身でございます。
ところが、同じ独り身でも長兄の太郎とは意味が違う。
手の施しようのない放蕩者で、相当の浮き名を流している。
挙句に亡き父から勘当されて、友人の家に厄介になっているという。
さて、ある時、長兄の太郎に縁談が舞い込みまして。
太郎さえ良ければ、先方はすでに承諾しているト申します。
しかし、太郎の方では、長らく独り身で過ごしてまいりましたので。
急に話がまとまりそうになるト、かえって怖気づいてしまう。
そこで、まずは嫁を遠くから眺めた後に決めようト考えまして。
己が一人で密かに先方の村へ赴きたいト。
仲介人に頼んで、手配してもらうことになりました。
太郎は弟二人にも詳細を告げないまま。
山向こうの隣り村へ用達しに行ってくるト。
一人で村を発ちましたが。
ここに一つ、問題が出来いたしましたのは。
隣り村へ向かうには峠を一つ越えなければなりません。
この峠トいうのが何かと曰くのある難所でございまして。
一人で越そうとする者は、必ず命を落とすトいう。
妖鬼が出るのだト申す者もありますが。
見た者がないので、確かめようもございません。
当の太郎はト申しますト。
これは女のことで頭が一杯でございますから。
怪異も妖鬼も知ったことではない。
嫁になるという女はどんな女であろうか。
器量など今更問う気はございませんが。
むしろ器量よしだと、気後れがする。
ト、不安がちになりますのは、これが初めての女になるからで。
そんなことをつらつら考えながら、山の麓の谷あいまでやってまいりますト。
そこに一軒の粗末な山小屋が建っておりましたが。
太郎がうつむきがちに、ブツブツとつぶやきながら通りすぎようといたしますト。
小屋の中から不意に呼び止める声がする。
「これッ、そこを通る者」
ト、ぶしつけに声をかけられて、初めて太郎も気が付きました。
見るト、白髪を腰まで伸ばした老婆でございます。
ようやく太郎もゾッとして、後ずさりする。
「どこへ行く」
「や、山向うの村だ」
「お前、一人で来たのか」
「そうだ」
老婆はじっと太郎を見て考えておりましたが。
「やめておけ。命を落とす。家に帰れ」
ト、諭すように言いました。
太郎はこれがかの怪異かト思っておりましたから。
老婆の言葉を意外に思いつつも、やはり行かなければなりません。
なんと答えて良いのやら、分からぬまま通り過ぎていきますト。
「聞かぬのなら、わしも知らぬ。谷川の滝の鳴る音に従って、行くとも帰るとも好きにしろ。この婆ァは嘘は言わぬぞ」
ト、太郎の背中に言葉を投げかけて、老婆は小屋に入って行きました。
山道を進んでいくト、老婆の申す通り谷川がある。
大きな滝が、ドンドンと音を立てて落ちている。
ト、太郎が驚きましたのは。
そこに見知った顔があったからで。
水の流れ落ちる滝壺の水面に。
かつて峠で消息を絶った、牛方の五郎次の顔がある。
水面と一体になったかのように。
波に合わせて、顔が揺れたり歪んだりしております。
「戻れや、太郎。戻れや」
あまりのことに腰を抜かしそうになりましたが。
太郎は、これが噂に聞いた山の怪かト。
五郎次を振り払うようにして。
一目散に山道を駆け登っていきました。
そんな太郎をまるで待ち構えてでもいたかのように。
突然、一陣の風がびゅーっと吹きまして。
左右の笹むらをなぎ倒さんばかりに揺らします。
ト、そこにも顔があった。
子どもの時にひと目だけ見たことのある老人で。
山の怪を信じず、実相を確かめに行ったまま帰らなかったという。
その老人の顔の部分ばかりが、激しく揺れる草間に見え隠れしております。
「帰れや、太郎。帰れや」
太郎は目をつぶって、草むらを駆け抜けて行きました。
再び、別の谷川に突き当たりまして。
ここには丸太の一本橋が掛かっております。
足を震わせながら、太郎は一刻も早くこの山中を抜けようト急ぐ。
ふと、下を流れる川に目を落とすト、そこにもやはり顔があった。
もう誰だか思い出す気にもならない。
村のどこかの家にいた、自分より年若の男です。
流れに抗うように、石と石の間に挟まって、太郎を見上げておりました。
男はゴフゴフと水を飲みながら、
「行くなや、太郎さ。行くなや」
ト言って、しばらく沈んだり浮いたりしておりましたが。
やがて、岩間から押し出され、下流へ流されていってしまいました。
流されていった男もまた、顔ばかりでございます。
――チョット、一息つきまして。