こんな話がございます。
天竺の話でございます。
成道して仏となられた釈尊の弟子に、提婆達多(だいばだった)という奸物がおりました。
この者は多聞第一として知られた高弟、阿難(あなん)の兄でございます。
ふたりとも、元をただせば釈尊の従弟でございますが。
同じ従弟でも、提婆達多と阿難では、陰と陽ほどの違いがある。
提婆達多という男は、生きながらにして無間地獄に堕ちたと伝えられております。
単に釈尊の教えに反したからというのではございません。
釈尊を殺害することによって自らが仏となろうという、誤った考えを抱いたからで。
後に唐の三蔵法師玄奘が天竺を旅しましたときに。
提婆達多が地獄に堕ちたという、その穴がまだ遺っていたとか申します。
さて、釈尊の元を離れた提婆達多でございますが。
摩竭陀国(まがだこく)は王舎城の阿闍世(あじゃせ)王子に取り入りまして。
その側近のような立場に収まっておりました。
「王子。今こそ、お父上を亡き者にして、あなたが王位に就くべきときです。私もまた、釈迦仏を誅して新仏となりましょう」
ある日、提婆達多が阿闍世王子の耳元で囁いた。
これには、阿闍世王子も驚きまして。
「お前はなんと恐ろしいことを言う。父君を害して私が王位に就くなどと、そんな不敬が許されようか」
阿闍世王子は、夜の森で悪魔にでも出くわしたような表情で、提婆達多を見る。
提婆達多は、まるで動じることもなく、阿闍世王子を見下ろします。
「お可哀そうに。王子は何もご存じないのです」
「何も知らないだと。では、お前は何を知っているというのだ」
するト、提婆達多は待っていたかのように、身を乗り出しまして。
「王子よ。ご自身の左の小指を御覧なさい」
ト、言いました。
王子はこの指のことに触れられるのを、幼い頃からことさら嫌っておりましたので。
まるで短刀を胸先に突きつけられたような気持ちになる。
「その指が折れている理由を、王子はご存知ございますまい」
確かに王子は、この指に長く劣等感を抱きながら。
それがなぜ、人と異なる形に折れているのか。
その理由を全く知りません。
「な、なぜこの指が折れているのか、お前は知っていると申すのか」
「知っております。ですから、今こそ父君をお討ちなさいと申すのです」
それから、提婆達多が長い沈黙をおいた後に。
静かに語り始めたその逸話こそが。
阿闍世王子の秘められた出生譚でございました。
父王、頻婆娑羅(びんばしゃら)王と韋提希(いだいけ)夫人の間には。
長らく、子がございませんでした。
焦った王が、占わせてみますト。
王宮の裏山に仙人が一人住んでいるという。
その仙人が間もなく寿命が尽きる予定にあり。
それがこの国の王子として転生するであろうト申します。
頻婆娑羅王と韋提希夫人は、それを聞いて大いに喜びましたが。
考えてみれば、その寿命というのがいつ尽きるのか、分かりません。
王も妃もいつまでも若くいられるわけではない。
妃が子を産めぬほど老いる時まで、その仙人は死なぬのではなかろうか。
いや、もしや――。
自分が老齢や戦いで死んだ後、他の者との間の子として、生まれてくるのではなかろうか。
そんな妄念が王の心に取り憑いて離れない。
王はやがて待ちきれなくなりまして。
一日も早く転生せよとばかりに。
ついに裏山に軍を差し向けました。
仙人一人を殺すのに、大国の軍勢数百騎が押し寄せる。
「なるほど、話はわかりました。殺さば殺すが良い」
ト、剣を突きつけられた仙人は、気味が悪いほど冷静で。
「私が殺されて王子に転生すると言うのなら、きっとあなたは子に殺される。王にそう伝えよ」
カッと目を見開き、そう捨て台詞を吐きますト。
仙人は無残にも斬り殺されてしまいました。
――チョット、一息つきまして。