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雨月物語 青頭巾

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どこまでお話しましたか。
そうそう、快庵禅師が下野国のある里で、食人鬼と化した和尚の話を耳にするところまでで――。

翌日、さっそく禅師は山上の寺へと向かいます。
人跡の絶えた山寺のこととて、楼門には茨が生い茂り、楼閣もすっかり苔むしている。
方丈、廊坊すべて荒れ果て、ここが由緒ある名刹だった面影はございません。

禅師は錫杖を鳴らしまして、

「諸国行脚の僧でございます。一晩の宿をお貸しくだされ」

ト呼びますが、何度呼びかけても人の出てくる気配はない。

それからしばらく経った時、ようやく人影がすっと奥の間から現れた。

痩せ衰えた僧が、よろよろと歩み出てきます。
しわがれた声で禅師に申しますことには。

「御僧はなにゆえ、かような寺にいらしたか。この寺はかくも荒れ果てて、人も住まぬ野良となりました。一粒の食糧もございません。宿を借りるなら里へ下りてお伺いなさい」

ト、追い返そうとする。

「私は美濃を出て、奥羽へ向かう旅の僧でございます。麓の里を通りました時に、山水の美しさに心を惹かれましてな。思わずこの山へ登ってきたのでございますが、日も傾いてまいりました。是非一晩の宿をお借りしたい」

和尚はやや困惑しておりましたが、

「それは一向に構いませんが、このような野良の荒れ寺でございます。何か変事が起きぬとも限りませんが、それでも良ければお好きになさるが良い」

そう言葉を濁したきり、和尚は黙って物を言わない。
禅師も一言も問いはしない。
互いに無言のまま、並んで座しておりましたが。

秋の日は釣瓶落とし。
そのうちに日は暮れて、鼻をつままれても分からぬ闇となる。
渓川の水の音が近くに聞こえているばかり。

やがて和尚は奥の間へ消えました。

そして、夜が更ける。
月が出る。
白い明かりが辺りを隈なく照らしだす。

子の刻(午前零時)と思しき頃――。

和尚が奥の間から、おもむろに姿を現しました。
ト、慌てた様子で何かを探している。

「くそ坊主め。どこへ隠れた。さっきまでここにおったのに」

ト、口汚く罵りながら禅師の周囲を走り回っておりますが。
その眼には貴いお姿が見えていない様子でございます。

堂の方へ駆けて行くかと思いますト。
庭を走り回っては、狂ったように跳びはねている。
そのうちに、疲れてしまったのか、禅師の座す間で横になって寝てしまった。

やがて夜は明け、朝日が差し込んでくる。
和尚は酔いから覚めた者のように、あたりをきょろきょろ見回しますト。
昨夜から変わらず座していた禅師の姿を目にしまして。
肩を落とし、ものも言わず、柱にもたれて、ただ溜息をついている。

「ご院主、何を嘆いておられる。腹が空いたのなら、拙僧の肉を喰らいて、満たしては如何か」

和尚は弱々しい声で、

「御僧は昨晩からずっとそこにおられたのか」

ト尋ねた。

「いかにも。一睡もしておらぬ」

すると、和尚が禅師の尊顔を拝するようにじっと見て、

「ご承知でございましょうが、私は人の肉を喰らいます。しかし、仏の肉はまだ食べません。師はまことの仏にございます。我が鬼畜の暗きまなこをもって、活仏のお姿をどうして見ることが出来ましょう。道理で一晩中探しまわっても――」




和尚はうなだれて言葉を失いました。
そこで禅師は、里人から話を聞いたいきさつを初めて語りまして。

「私はお前を教化して、元の心に立ち返らせようとやってきたのだ。どうだ、私の教えに耳を傾けるつもりがあるか」
「師はまことの仏にございます。私の浅ましい業を滅する理(ことわり)を、どうかお教えくださいませ」

そこで禅師は和尚を縁側の平らな石の上に座らせまして。
ご自身のお被りになっていた藍染めの頭巾を脱ぎ、和尚の頭に被せます。

「江月照松風吹(こうげつてらし しょうふうふく)
永夜清宵何所為(えいやせいしょう なんのしょいぞ)」

これは証道(しょうどう)――すなわち、禅の極意を詩にまとめたもののごく一部で、唐の永嘉大師の作でございます。

――月の照る中、風が吹き、松がさざめく音がする。清く澄んだ夜空の下、さあ何をする。

トいったような意味だそうして。
それがどんな極意を秘めているのか、私はさっぱり分かりませんが。

今ここに、禅師はこの二句を和尚に授けまして、

「お前はここに居続け、心静かにこの二句の真意を求めなさい。その意が分かった時、本来備わっている仏心がおのずから花開くであろう」

ねんごろに教えを説きまして、禅師は山を下りました。

それから月日はまたたく間に過ぎまして。
翌年、十月の初めでございます。

禅師は奥州からの帰路に、再びこの里を通りかかりまして。
かの家の主人を久しぶりに訪ねました。

主人は非常に喜びまして、

「おかげさまで鬼が山を下ってくることもなくなりました。ただ、みな恐ろしがって山へ上る者がございません。ですから、あれからどうなったのか誰も存じませんが、おそらくはもう生きてはいないのでしょう。どうか今夜はここにお泊まりいただいて、明日、和尚の供養をしてやってくださいませ」

ト、禅師に申し出る。

禅師は翌日、山を登って行きました。
山道は去年にもまして、人の往来は絶えている様子です。

寺に入るト、萩やすすきが人の背丈より高く、生い茂っている。
堂の戸があちらこちらに倒れ、回廊も雨に晒されて苔むしている。

さて、和尚を座らせた平らな石の跡へ目をやりますト――。

そこに、僧俗の別も分からぬほどに、髭や髪の生え乱れた者の影がひとつ。
すすきの群れる中から、蚊の鳴くような細い声がする。

耳を澄ますト、わずかに聞き取れた証道の二句。

「江月照松風吹(こうげつてらし しょうふうふく)
永夜清宵何所為(えいやせいしょう なんのしょいぞ)」

ト、ぶつぶつと繰り返し呟いている。

禅師は手にした禅杖を握り直し、

「その意や如何にッ」

一喝して和尚の頭を打ちますト――。

氷が朝日に出会うが如く、姿形は消え失せまして。
青頭巾と骨ばかりが、草葉に残っていたという。

そんなよくあるはなし――。
もとい、余苦在話でございます。

(上田秋成「雨月物語」『青頭巾』ヨリ)

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