妲己のお百(一)海坊主斬り

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こんな話がございます。

これから幾回かに分けまして。
「妲己のお百(だっきのおひゃく)」の悪行譚をお話しいたしますが。
今回、お百はまだ出てまいりませんので。
そのおつもりでお聞きいただきたいと存じますが。

そも、妲己のお百とは何者かト申しますト。

殷王朝最後の王たる、紂王(ちゅうおう)の治世に。
妲己ト申す絶世の美女がございましたが。
これは同時に稀代の悪女でもございました。

唐土(もろこし)の三代悪女のひとりに数えられているほどでございまして。
俗に「酒池肉林」なる言葉がございますが。
これは、この女の贅沢三昧を揶揄して生まれたものでございます。

その妲己をも凌ぐ悪女であるということから。
不名誉にもその名を冠せられましたのが。
我が日の本における毒婦の総裁、悪女の元締め。
妲己のお百ト申す、実にけしからぬ女でございます。

ご承知の通り、出羽秋田藩は、佐竹侯の御領地でございますが。
そのお抱えの御用船頭に、桑名徳蔵ト申す者がございました。

御用船の雷電丸に、領主佐竹家の米を積み込みまして。
大坂中之島の佐竹家蔵屋敷へ運びこむのが役目でございます。

ある年の十月十日に、徳蔵はお預かりした米を積んで、この船に乗り込みましたが。
他にも、南部家と津軽家から私的に米を買って、ともに船に積みました。
これは、御用船の空きを活かして、大坂で一儲けしようトいう魂胆でございます。

さて、船は途中、越後や出雲で大しけに遭いまして。
当初の予定から大幅に遅れはいたしましたが。
なんとかその年の大晦日に、備後国は児島に船を着けました。

船頭たちの間では、元日と盆の十三日、そして大晦日に航海をするのは禁忌でございます。
この日に船を出すと必ず難破するト、強く信じられておりますので。

船乗りたちは、当然今日は休みだト思い、酒樽を開けて祝おうトする。
天気は快晴、波は穏やかにして畳を敷いたるが如しでございます。

ところが、徳蔵は船乗りたちに待ったをかけまして。

「悪いが、もう一働きしてもらわなければならねえ」

ト言い出しました。

殿様の御用米は、中之島の蔵屋敷に運びさえすれば問題はない。
ところが、徳蔵が津軽家や南部家から買い込んだ米はそうもいきません。

相場の良い時に売り抜けないト、大損をしてしまいかねません。
殊に、大しけが続くようなことでもございますト。
それが悪材料トなりまして、相場が暴落することもありえます。

徳蔵は船乗りたちを説得いたしまして。
波の穏やかなうちに、兵庫の鯖江で米を売りさばこうト。
強引に船を出航させました。

大晦日は日本中が船止めでございますから。
海上には船が一艘も見当たりません。
水先ト申す役の者が、船の舳先に立ちまして。

「面舵ヨォー」
「取舵ヨォー」

ト、指図をしながら進みます。

この大海原に船ト申せば、己等のみでございますので。
そうでもしないト、どこが浅瀬だか見当もつきません。

こうして、どうにかこうにか夜中に播州の沖を越えまして。
摂津国の海上に入ってきた時のことでございます。

「親方、だから言ったこっちゃない」

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水先の権八が青い顔をして、徳蔵を呼びました。

「どうした」
「風もないのに、船が勝手に廻ります。御覧なさい」

確かに、まるで大風にでも吹かれたように。
船が大きく旋回している様子でございます。

「しまった。妖物に憑かれたか――」

こういう時のために、徳蔵は常日頃身につけているものがある。
佐竹侯より拝領せし、来国俊(らい くにとし=鎌倉期の刀工)の一刀でございます。

今ここに国俊の名刀をスラリと抜きまして。
グッと海に睨みをきかせますト。
これぞ名剣の威徳でございましょう。
旋回した船が、ギイ―ッとまた元の通りに戻りました。

「おーい、みんな起きろ。ここで流されれば、なすすべもなく豊後の沖だ。左へ舵を切れば、目をつぶっていても兵庫の鯖江へ着くはずだ。しっかりやってくれッ」

十三人の船乗りが一斉に出てきて、大声を上げる。
船は順風をはらんで鯖江へ向かう。

ト、遠い海の真ん中に、大きな山が見えてきた。

「待て。こんなところに山などあるわけがねえ。どうやら、これが海妖海魔らしい。よし、突っ込め。あとは俺がなんとかする」

船乗りたちは指図通り、山へ向かって突っ込んでいく。
ト、不思議な事にスルリと船が突き抜けて行きました。
振り返ると、やはり後ろに大きな山がある。

「親方、金輪際、大晦日の航海は勘弁してくだせえ。もうあんな思いはこりごりだ」

夜半に鯖江の湊に停泊しました時には、船乗りたちはすっかり怯えておりました。
みな、夜明けまで気を落ち着かせようト、酒を飲んで寝てしまった。

徳蔵は、己の商いのために、船乗りたちに無理をさせてしまった手前もあり。
ひとり起きて時を潰しておりましたが――。

――ゴーン、ゴーン。

ト、不意に大晦日の除夜の鐘が鳴り始める。
それを合図としたかのように、プーンと腥い臭いがあたりに漂ってまいりました。

「徳蔵ォ――。おるかあァ――」

海鳴りのようなその声に、何だと思って振り返りますト。
目も鼻も口もない、のっぺらぼうの黒い気の塊が。
波の上から船に乗りかかるようにして、徳蔵に迫ってまいりました。

徳蔵は国俊の一刀を抜く。

「板子一枚下は地獄という稼業だ。化物が怖くて船乗りが務まるかッ」

ト、もとより肩も胸もございませんが。
袈裟懸けに黒い海坊主を斬りつけた。

まるで氷の山が瞬時に溶けるようにして。
黒い気の塊は、海の水の中にどさどさと崩れ落ちていきました。

――チョット、一息つきまして。

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