ひとり女房 一殺多生

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こんな話がございます。

あなた様は呑気に――イヤ、平和にお暮らしでございましょうから。
よもやこんなことはご存知ありますまいが。
山には山の禁忌があり。
海には海の禁忌がございます。

多くの山里では、師走の初めから翌二月始めにかけまして。
「キソウモクの生まれる日」ト称して、山入りを一切禁じます。
言うまでもなく「木」「草木」でございますナ。
山の恵みを得んためには、山に生まれ育ってもらわねばなりません。

他にも、山の神は女だから嫉妬させることを言ってはならぬナド。
とかく山には小うるさい掟が多いものでございます。

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一方、海にも海の戒めがある。

元日、盆の十三日、大晦日には船を出してはなりません。
これなどは、山の掟とも通じるところで、理にかなってはいる。

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ところが他方では、まるで合点のゆかぬおかしな迷信もあったもので。
その最たるものが、これからお話する「ひとり女房」だト申せましょう。

明応年間ト申しますから。
今の世に知られる戦国の猛将たちが。
まだほんの赤ん坊だった頃の話でございます。

猿楽(能)の鼓打ちなる善珍ト。
同じく笛吹きの彦四郎の両人が。
駿河へ下らんと、伊勢の大湊で便船を待っておりました。

天気は晴朗にして、波は穏やかでございます。
やがて相客たちも乗り込んでまいりまして。
船はいよいよ出航する。

善珍は自家の中間(ちゅうげん)――つまり家来を連れておりましたが。
それは、中間の妻が駿河の人でございまして。
病の母を見舞うため、夫婦して主人の旅に同行したものでございます。

するト、それを見て船頭が途端に気色ばむ。

「ひとり女房を乗せるわけにはいかねえ。降りてもらおう」

言われて夫の中間は、ハッとしまして。
慌てて船の中を見回してみる。
己の妻以外に女はひとりもおりません。
これがいわゆる、ひとり女房。

「どの浦のどの船でも同じことだ。ひとり女房を乗せられねえのは船の法。何か災いがあってからじゃ手遅れだ。別の船に女連れがあろうから、そちらに乗り換えておくんなせえ」

普段はおとなしい中間でしたが。
この時ばかりは珍しく顔に怒気を含ませた。

「物見遊山で来たんじゃない。急ぎの用だ。それに主人のそばを離れるわけにはいかない」

ト、きっぱりはねつける。

若いやっこのその態度に。
船頭も言うべき言葉を失いまして。
すごすごト引き下がっていった。

「――何かあっても、オレは知らねえぞ」

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さて、これは伊良湖(いらご)の渡りト申しまして。
伊勢と尾張を海路で結ぶ片道七里の渡し船でございます。

その海路を三里ばかり行った頃。
晴れ渡った青空に、突如、一片の大きな雨雲が浮かびました。

「そら見ろ。言わねえこっちゃねえ」

ト、船頭が呟くか呟かないかの内に。
雨雲は空にはびこり、天は曇って暮れ方のよう。
風は荒く吹き付け、波はにわかに騒ぎ立つ。

それがたちまち大波となり。
木の葉のような渡し船に。
これでもかト襲いかかってきた。

あれほど居丈高だった船頭が。
今や顔を真っ青に染めまして。
己の荷物をひとつ、ふたつト手に取りますト。
躊躇うことなく、海にドボンと投げ入れた。

「さあ、お客衆。命が惜しけりゃ、荷物をあっさり捨ててもらおう。龍神の欲しがるような秘蔵のもの、太刀、宝などあれば、みんな奉らなけりゃならねえ」

相客たちはみな、何はともあれ命が惜しいト見えまして。
次々に荷物や刀を海に投げ入れた。

「お前さん――」

ト、中間の若い妻が。
夫にすがりついて震えている。

「気にするな。ご主人様を見ろ」

中間は妻の肩を抱き、二人して主人の善珍を見た。

善珍は目を瞑り、泰然として座している。
その脇には、家宝の鼓の入った桐の箱。

そこへさっそく船頭がやって来まして。

「これは何だ」

ト、声を荒げて睨みつけましたが。

「これは家宝の鼓にてござる。如何に龍神が求めようとも、先祖の手前、投げ捨てるわけにはまいらぬ」

あっぱれ善珍はまるで動じもしない。

中間夫婦は主人の姿に勇気づけられまして。
人知れず互いの手を強く握り合いましたが。

とかく恐怖を前にいたしましては。
人の心ほど当てにならぬものもまたございません。

――チョット、一息つきまして。

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