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餓鬼憑き ヤビツ峠の落武者と霊

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どこまでお話しましたか。
そうそう、三増峠の戦いで敗走した北条方の落人六名が、野原に埋伏する敵の槍を見て観念し、次々と自決して果てるところまでで――。

「太助。貴様はこれを使え」

若党が、死んだ仲間の刀を太助に渡す。
抜き身の刀がズシリと重い。
血に濡れた刀身がぬらぬらト妖しく光っている。

「よし。いくぞ」

ト、こちらに向かって構えた若党の。
死を決意した鬼気迫る眼差しが。
太助の目にはまるで鬼神か夜叉が。
生肝を求めているように見えてなりません。

「ヒイッ」

太助は持ち慣れぬ刀を思わず突き出す。
ト、虚を突かれた若党のみぞおちに。
ズブっと見事に突き刺さりまして。
そのままこちらへ覆いかぶさってきた。

目の前には断末魔の死に顔が。
胸のあたりにはぬるく生臭い血が。
肌にじとりじとりト染み込んでくる。

いつしか正気が遠のいていった。

気がつくト太助は血の池の中で。
死骸に抱きつかれて倒れておりましたが。
死に物狂いで亡者の縛めから抜け出しますト。
取るものも取りあえず、その場から駆け出していきました。

ト、藪を抜けて広い野原へ出たその刹那。
太助は遅まきながら思い出した。

「しまった。向こうには敵が――」

慌てて立ち止まりはいたしましたが。
考えてみるト、何かがおかしい。
西日が沈みかけているのを見るト。
あれから一とき(二時間)以上は過ぎたはずだが。

敵の伏兵たちは今も一糸乱れず。
槍を天に向けて構え続けている。
一体、誰を待ち伏せていると言うのだろう。

ふと、疑念を抱いた太助の目に。
ようやく見えてきた真実の姿。

「ヤッ。あれは――。幻だったか」

野原の果てに立ち並んでいたのは。
伏兵の槍などではございません。
それは稔りの秋の刈り入れのために。
斜めに切られたもろこしの茎でございました。

あまりのことに太助は。
愕然として座り込む。

もろこしごときに怖気づいて。
我が殿も執事も若党たちも。
むざむざト命を捨てたとは――。

日は沈み。
風が吹き。
憎きもろこし畑がサラサラ揺れる。

あれから如何ほどが経ったろう。
力なく座り込んだ太助の脳裏に。
現れては消える姿が一つある。

幼い頃から仲の良かった弟儀助でございます。

儀助は今頃どうしているだろう。
弟もまた、さる武将の従者として。
此度の合戦に参じているはずだが。
戦の混乱からうまく逃げ出していればいいのだが。

太助は立ち上がり、歩きだす。
それから幾日もの間。
弟に会いたいというその一心で。
丹沢の山中をひとり彷徨い続けましたが。

行けども行けども、道は開かれません。
獣も通らぬような深い藪ばかり。
食い物と言えば腰袋に入れた焼き米と塩がひと掴みずつ。
これを後生大事に、少しずつかじり、舐めては餓えをしのいだ。

ところがどれだけ歩いても、一向に山からは抜け出せません。
迷うほどに不慣れな土地ではないはずだが――。

彷徨いつつ、また幾日、幾十日が過ぎました。
焼き米も塩も、砂粒ほどにしか残っていない。

――儀助はもう村へ辿り着いているだろうか。
さもなくば、あれもさぞかし餓えていように――

名も知らぬ峠の一本道を、弟の身を案じつつ。
夜風に吹かれてふらふらト漂泊していた、ちょうどその時。




暗い夜道の向こうから、同じようにおぼつかない足取りで。
ふらふらトこちらへ歩いてくる、若い男らしき姿が見えた。

夜目を凝らしてよく見てみますト、背中に何かを背負っている。

――あれは、矢櫃(やびつ)か。

おそらく主人の矢を櫃に入れ、背負っているのでございましょう。
トすればこれも己と同様、落人なのに違いない。

――敵か、味方か。

月明かりに男の姿が照らし出されるのを。
木陰に立ってじっと待った。

夜道を徘徊する若い落人が。
森の木々の影からふっと抜け。
月光の下にスッと姿を現す。

あまりのおぞましさに太助は凍りついた。

髪はざんばらで、ところどころが抜け落ちており。
頬はげっそりトこけ、手足も骨と皮ばかり。
あばらが無残にむき出しになり、腹ばかりぽっこり膨れた若者が。
裸に矢櫃のみを背負い、意思もなくただ呆然と歩いている。

ひん剥いた目玉がギョロリと太助の姿を捉えた。

「儀助ッ。お前生きていたか」

いくら変わり果てた姿になろうとも。
弟の姿を見逃すわけがございません。
懐かしい面影に歩み寄り、抱き寄せようとした兄に。
突如襲い掛かってきたのは、耐え難いほどの空腹で。

太助は思わず腹を押さえてうずくまった。

これまでなんとか凌いできたのが。
今更になっておかしなくらいに腹が減る。
視線の先には、餓鬼の如き姿の弟儀助が。
ニヤリ、ニヤリと不敵な笑みを浮かべている。

「ウウッ、ウウウッ、ウウウウゥゥゥゥゥ――」

儀助、いや、一体の餓鬼が、舌なめずりして呻いている。
もはや己が人であったことを、忘れてしまっているかのように。
そこにいるのが兄だとは、もはや思い出せないかのように。

――腹が減った。食いたい。

身を案じてきた弟がすぐそこにいるというのに。
その弟が変わり果てた姿になってしまったというのに。
呪いにでも掛けられたように、太助は腹が減ってしまって動けない。

(オマエモ、ウエロヨ)

ふとそんな声が聞こえてきたように思いましたが。
太助は地を見つめたまま動けません。

千鳥足の餓鬼がこちらに近づいてくる。
太助は懸命に頭をもたげる。

「ぎ、儀助――。待て――」

目の前に迫っていたのは。
目玉をひん剥き、大口を開けた。
げに凄まじき鬼の形相。

ガリッと耳に聞こえたのが。
この世の音の聞き納め――。

いつしか名も無きこの峠は、ヤビツ峠と呼ばれるようになり。
これを越える旅人は、餓鬼にきっと食い物を施せト。
さもなくば餓えに取り憑かれ、取って食われてしまうぞト。
そう戒められるようになったという。

そんなよくあるはなし――。
もとい、余苦在話でございます。

(三増峠合戦ニ纏ワル相州ノ伝説ヨリ)

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