こんな話がございます。
有名な累ヶ淵(かさねがふち)のお話でございます。
下総国岡田郡羽生村の、絹川のほとりの集落に。
与右衛門ト申す百姓が住んでおりました。
この与右衛門には娘が一人おりまして。
名を累(るい)ト申しましたが。
実名で呼ぶ者は誰もいない。
村人たちはもっぱら、「かさね」ト呼んでいる。
どうして、かさねト呼ばれるのか。
そのわけはおいおいご説明いたしますが。
「るい」が「かさね」ト呼ばれるそのわけに。
このお話の恐ろしさが秘められているト申せます。
さて、この累(かさね)には難点がございまして。
それは、性根が捻じ曲がっていることでございます。
村人たちはみな、この女を嫌っている。
どうして、そんなに心が醜いのかト申しますト。
そもそも、器量が醜いからで。
顔が捻じ曲がっているのだから、致し方がない。
ト、人々はそう考えている。
実の父親の与右衛門も、我が娘ながら累が憎くてたまらない。
それでも妻を亡くし、父娘二人で暮らしておりますので。
そう邪険に扱うわけにもまいりません。
かてて加えて、累は生まれついての足萎えでございます。
与右衛門は、せめて婿のなり手があるようにト。
貧しくとも田畑を売らずに置きまして。
遺産として娘に残し、やがてこの世を去りました。
それからしばらくの間、累はひとりで暮らしておりました。
父の残した畑に豆を植え、それを刈り取って己の食い扶持にする。
そんな寂しくも慎ましやかな生活に。
突如、なだれ込んできた者がある。
流れ者の谷五郎ト申す男でございますが。
日頃の悪事が祟ったのか、この時、酷い熱に侵されていた。
村の誰も、乞食のようなこの病人を。
相手にしようとはいたしませんが。
ひとり、累だけが哀れに思い。
手厚く看病をしてやった。
性根が捻じ曲がっているとは申しますが。
あくまで、村人たちの勝手な偏見で。
累自身は本当は気立ての良い娘でございます。
器量の醜いのを気にいたしまして。
人前に出ようとしたがらないのが。
これまで誤解されていたまで。
流れ者とは言えど、そこは血の通う人間でございますから。
谷五郎も累の親切に、次第にほだされていきまして。
やがて二人は慕い合う仲となる。
南瓜を押しつぶしたような醜い女と。
脛に傷持つ兇状持ちとが。
一つ屋根の下で仲良く暮らす。
二人は仲人を立てて正式に夫婦となる。
谷五郎は婿入りし、二代目与右衛門を名乗りました。
ところが、男というものは現金なもので。
家と田畑が手に入ったとなると。
急に現実的になる。
累が慕わしく思われたのも。
熱にうなされていたからで。
一旦、熱から冷めますト。
どうしてこんな女と、ト。
急に累が恨めしくなる。
家はある。
田畑もある。
だが、累がいなければならない理由はどこにもない。
思い立った、谷五郎の与右衛門は。
それから機会をずっと窺っておりましたが。
ある日、いつものように夫婦で豆を刈りに行きますト。
刈り終えた豆の枝を累にたくさん背負わせた。
「与右衛門さん、私にはちょっと重いですよ」
「いつか子供ができたら、精一杯養ってやらねばならねえ。ちょっと我慢してやってくれ」
与右衛門は累と子をなす気など毛頭ない。
いつもは行かぬ絹川土手に、累を誘って連れて行く。
「もう日が暮れますよ。こんな時分にどうして川へ」
「たくさん刈ったから、鎌がずいぶん汚れてしまった。ついでだから、川の水で洗って帰ろう」
正直で世間ずれしていない累は、言われるがままに。
豆のついた枝をたくさん背負って、絹川土手へ歩いて行く。
後ろから与右衛門がついてくる。
「累、お前も随分手が汚れたな。ここで洗ってから行くのが良かろう」
「どうせ家に帰るのですから、家で洗えばいいでしょう」
累もさすがに訝しがる。
「えいッ、うるさい。言うとおりにしろッ」
川に手を差し出し、かがんだ累を。
後ろから与右衛門が突き落とす。
重い荷を背負った累は、たちまち川底に沈んでいった。
やがって、手足をばたつかせ。
もがきながら累が浮かび上がってくる。
「お前さん、お前さんッ。おま――」
累が必死に助けを求める。
「成仏しろッ」
与右衛門が鎌を振り上げる。
額にぐさりと突き刺さりますト。
噴き上がった血しぶきが、累と与右衛門の顔を真っ赤に染めた。
やがて女は沈んでいきました。
その様子を村人ふたりが見ておりましたが。
ふたりとも、累を嫌っておりますので。
見て見ぬふりをいたしました。
――チョット、一息つきまして。