どこまでお話しましたか。
そうそう、猟師の嘉兵衛が年頃だったある晩、暗闇へ消えて行く幼馴染の広の姿を目にしたところまでで――。
愛しい広が夜更けに家を出て、魅入られたように闇へ消えていく姿を。
まだ十四だった嘉兵衛は、ただ黙って見送ってしまいましたが。
翌朝になるト、隣の家が騒ぎになっている。
広が夜具をもぬけの殻にしたまま、帰ってこないト申します。
それから、昼を過ぎ、夕方になっても戻りませんので。
村中総出で広を探すことになりました。
嘉兵衛は今さら見たとも言えません。
青ざめた顔をして大人に混じり、山狩りをする。
ところが、広は見つかりません。
そうこうして一日が過ぎ、十日が過ぎ、それが十月(とつき)になり、一年になりました。
この頃になるト、隣家でもさすがに諦めまして。
娘が使っていた枕を形代にし、弔いを出して区切りをつけた。
あれからおよそ二十年。
生きていれば、広も三十路の坂を越えたはず――。
それだけに目の前の女の美しさが、嘉兵衛にはかえって哀れに思えました。
「気がつくと山の中にひとりでいて、それから恐ろしい化け物に連れて行かれたのです。何度逃げようと思ったことかしれません。しかし、その者はまったく隙を見せず、やがて私も諦めました。お笑いになるでしょうが、それが今では私の亭主です」
「化け物だなんて――。仮にも亭主なら、そんな言い草――」
嘉兵衛も言葉を選んだつもりが、どうしても棘を含んでしまう。
「いえ、あなた。それが、本当に化け物なのですよ」
「俺にも今じゃあ女房に子がある。気を遣っているつもりなら、無理をしないでくれ」
知らず知らずのうちに嘉兵衛は、広を非難する口調になっている。
広も広で、どこか弁解するように語気を強める。
「あなたは知らないのです。それが証拠に私は、あれからたくさん子を生みましたが――」
「子を生んだ――」
その時になって、嘉兵衛ははたと思い出す。
広が背中におぶった子――。
肩口から頭を覗かせているが、顔は背中に埋まって見えません。
「俺に似ていない、俺の子ではないと言って、あの人は片っ端から食い尽くしてしまったのですよ」
そう言って、広の表情が瞬時にキッと険しくなった。
睨まれて嘉兵衛も困惑する。
「似ていないって。では、一体誰に似ているんだ」
「誰――。誰ですって。よくぞ聞いてくれました。坊や、起きなさい」
広は背中の子を起こすように、肩を一度軽く揺すりました。
赤子が途端に泣き声を上げる。
「誰に似ているかって。よく見なさい」
ト言って、広がじっと嘉兵衛を見る。
背中の子もじっと嘉兵衛を見る。
「あっ――」
ト、嘉兵衛は思わず声を上げた。
女の肩口から覗くのは、紛うことなき己の顔。
いや、己によく似た赤子です。
母と赤子と――。
ふたりがじっとこちらを見つめたまま。
笹原の上を歩くようにして、じわりじわりトにじり寄ってくる。
己が想ったかつての娘と、己によく似た嬰児と――。
ズドンッ――。
気づいた時には、嘉兵衛は女を撃っていた。
「広ッ――」
我に返って、嘉兵衛は慌てて駆け寄りました。
笹をザラザラと乱暴にかき分け、女の立っていたあたりを探しますト。
そこに広がしどけない姿で倒れている。
背中におぶっていた子は消えている。
あたりはすでに血の池となっている。
黒髪がその血を吸い上げでもしたかのように。
心なしか、より長く見えた。
「広ッ――」
かつての愛しい人の亡骸にすがりつき。
嘉兵衛はただ声を上げて泣いておりましたが。
ひとしきり泣いて涙も乾いてしまいますト。
ふと思いついて、懐から小刀を取り出しまして。
形見に、トでも考えましたものか。
女の長い黒髪をひと束切り落として、懐にしまった。
それからはもう無我夢中で。
大事そうに懐に手を押し当てて、山を駆け下りていきましたが。
次第に足が重くなる。
何とも耐え難い眠気が嘉兵衛を襲う。
まるで草や木の根に足首を掴まれでもしたように。
嘉兵衛はついに立ち止まり、木陰に横になってしまいました。
いつしか堕ちる夢現の境――。
そこへ、ドシッ、ドシッと音を立てて近づいてくる怪しい人影。
赤黒い顔をした大男でございます。
嘉兵衛の前にしゃがみ込み、目玉をひん剥いて顔を覗き込んでいる。
嘉兵衛はゾッとしましたが、どうにも体が動きません。
男はしばらくじっと嘉兵衛の顔を見つめておりましたが。
やがて嘉兵衛の懐に手を入れますト、件の長髪を奪い取りまして。
去り際にただ一言、ボソリとこうつぶやきました。
「似ている」
嘉兵衛は翌朝になって、ほうほうの体で里へ帰りましたが。
以上の話をすっかり語ると、煩いついて間もなくこの世を去ったという。
そんなよくあるはなし――。
もとい、余苦在話でございます。
(柳田國男「遠野物語」第三、第四、第六、第七ヨリ)
コメント
ほんと怖いですよ!
夜読めない・・・
子ども向けのお話も知りたいです(笑)
林間でお話だ!
ありがとうございます。
普段自分で怖がることはないので、
こうした反応を教えていただけると本当に嬉しいです。
今後ともよろしくお願いします。