どこまでお話しましたか。
そうそう、ひとり女房を乗せた船が嵐に遭い、客衆が大事な荷物を海に捨てるよう迫られるところまでで――。
善珍の態度を見ていきり立ったのは、他の相客たちで。
「何を言う。我々だって大事の品を、みな海に投げ入れたではないか。家宝だからこそ、神に捧げる価値があろうものを」
ト言って、善珍を取り囲む。
それでも善珍は応じるどころか。
その輪の中で鷹揚に。
桐の箱の緒を解きまして。
鼓を取り出し、肩に構えますト。
ぽーんト、一つ打ちました。
相客たちは呆気にとられている。
善珍はひとり目を瞑っている。
神よ聞け、トばかりに澄ましております。
だが、どうやってこの荒海に響きましょう。
空はかき曇り、大粒の雨が激しく身を打っている。
波は荒れ狂い、船は今にも呑み込まれそうでございます。
鼓の音ナド、隣の者の耳にも響きません。
「何でも良いからさっさと捨てろッ。さもないとお前を投げ込むぞッ」
大柄の男が善珍の喉輪を掴み。
船べりから突き落とそうといたします。
「わ、分かった。命ばかりは助けてくれ――」
首をへし折られそうになって善珍は。
必死に命乞いをいたしました。
鼓は男たちの手に渡るや。
未練もなく荒海にドボン――。
中間と妻は息を呑む。
「お前は何をしている」
トの声にゾットいたしますト。
皆の視線が向かったのは、笛吹きの彦四郎で。
「なに。こんなものは宝でも秘蔵でもなんでもねえ」
懐に笛を乱暴に突っ込んだまま。
彦四郎が不敵に笑っている。
「いや、お前は笛の名手だろう。惜しめば龍神の怒りを買うぞ」
「わかったよ。ほら」
ト、彦四郎は惜しげもなく笛を海に投げ込んだ。
中間夫婦はいよいよ、互いに身を寄せ合う。
波はなお高く、船底には水が溜まり始めている。
客衆が力を合わせて掻き出します。
船はくるくるト廻るばかりで、前に進まない。
僧は経を読み、俗は念仏を唱えだす。
その時、天をも怨むような声が聞こえてくる。
「これほどに大事の品を投げうち、経念仏を響かせても、波風は一向に収まる気配がないとは――」
毒々しく吐き捨てたのは、誰あろう主人の善珍でございます。
「女人ひとりゆえに、相客の衆を三十人も四十人も死なせるわけにはいかぬぞ」
主人は中間の妻をじっと見た。
鼓を失った怨念か、生き残るための執念か。
どちらともつかぬ鋭い眼差しでございます。
その眼光がひとつ、ふたつ――。
みっつ、よっつ――。
いつつ、むっつ――。
蝋燭の火が順に灯されていくように。
徐々に増えて、こちらを睨みつけてくる。
いつしか、三十対、四十対の眼差しが。
ギラギラ光るように、中間夫婦を取り囲んだ。
夫が妻の手にじっとりと汗を感じた、その時――。
「おい、あの黒い影は何だ」
遠い波の合間に見え隠れする。
黒い艶のある大きな生き物のようなもの。
目は光り、口先は尖り。
肌は馬のようにのっぺりとして。
「これは一大事だ。みんな、余計な口を叩かず、ただ経念仏を唱えてくれ。大変なことになった――」
船頭はがたがた震えながら手を合わせて祈る。
「う、海坊主か――」
ト、誰かが言ったその瞬間。
中間の目にも、それが確かに見えました。
いつかどこかの寺で見た。
厳格な和尚に似た入道が。
炭を塗ったように黒い肌をして。
牛馬のような図体をした入道が。
波間からこちらをじろりと睨みつけ。
「その女を早く出せ」
ト言っているように思われてくる。
神どころか、これは妖魔でございます。
「ソレッ。女を投げ入れろ。もはや猶予はないぞッ」
群衆が夫婦に襲いかかる。
くんずほぐれつ、その修羅場の只中で。
固く握られていた夫婦の手は。
徐々に解けていきました。
「あぁッ――」
ト、聞こえた妻の叫び声。
続いてドボンと波を激しく叩く音。
「漕げッ」
船頭が無情の指図を漕手に出す。
船はこれまでのことが嘘のように。
波を真っ二つに切り裂くようにして。
大海原を逃げてゆく。
「待て。早まるなッ」
中間が思わず海に飛び込もうといたしますのを。
相客がすがりつくようにして止めました。
やがて風は和らぎ、波は静まる。
船は無事に岸近くに漕ぎ着けましたが。
その時、目の前の波間に現れた黒い影。
客衆が「すわ」と身構えますト。
見ればそれは一頭の海豚(いるか)でございます。
船を先導するようにすいすいト泳いでいる。
「なるほど。さっき我々が見たのはこの海豚だったか」
誰かの言葉に、中間が愕然として膝から崩れ落ちますト。
背後から歩み寄って肩を叩く者がある。
主人の善珍でございます。
「これぞ一殺多生(いっせつたしょう)と言うのだ。お前たちの功徳はきっと報われる」
そこへ、笛吹きの彦四郎がやってきて。
「ふん。屁理屈を言うな。ただ嵐が通り過ぎただけのことじゃねえか」
そう言うト、懐に隠していた別の笛を取り出してニヤリ。
岸に着くと中間は、そのまま姿を消しました。
追い詰められた人心から、釈迦の説法がひょいと飛び出すという。
そんなよくあるはなし――。
もとい、余苦在話でございます。
(「奇異雑談集」巻三の五『伊良虞のわたりにて独り女房船にのりて鮫にとらわれし事』ヨリ)