こんな話がございます。
江戸四宿の一、奥州街道は千住の宿。
ここは小塚原(こづかっぱら)の刑場に近いためか。
はてまた、掘れば罪人の骨(こつ)が出るためか。
一名を「コツ」ト申しますナ。
さて、このコツに立ち並ぶ女郎屋を。
一軒一軒拝んで歩く坊主がひとり。
名を西念ト申す願人坊主(がんにんぼうず)。
千住いろは長屋、への九番に住むトいう。
良く言えば坊主でございますが。
有り体に申せば乞食も同然で。
念仏の真似事をして、人様から施しを受けている。
朝は一番に観音様へお参りをし。
それから日暮れまで江戸中をもらって回る。
実に熱心なおもらいでございます。
そして、軒下に立つ西念のその姿を。
二階の手摺から見下ろしている。
美しくも、はかなげな人影がひとつ。
これは女郎屋若松の板頭(いたがしら)。
つまりこの店一番の人気女郎で。
年の頃なら二十二、三。
名をお熊ト申す、稀代の美人でございます。
「西念さん」
「オヤ、これは姐さん」
親以上の年の西念が、下から見上げるや会釈した。
「上がっておいでよ」
女の優しい笑みに、西念はすっかり恐縮いたしまして。
「滅相もない。わたしのような汚い爺が」
「いいんだよ。今日はおっかさんの命日なの。ちょっと上がって拝んでいっておくれよ」
通されるまま二階の座敷へ上がりますト。
床の間に位牌がひとつ立ててある。
神妙そうに見守る美人を背に。
西念はいつもの出鱈目な念仏をブツブツと唱え始めました。
「すまないね。これはほんの志」
拝み終えるト、お熊の小さな手が。
スッと伸びてきて、西念の手に銭を握らせる。
「それから、燗冷ましでよかったら」
ト、残り物の酒を勧めてくれました。
「前も言ったかしら。私はこう見えて、元は大店(おおだな)の娘でねえ」
西念が盃に口をつけたのを見て、お熊が切り出した。
「なるほど、他の姐さん方とはどこか品が違うと思っておりましたが。で、どんなご商売を」
「神田小川町で糠問屋をしていたんだ」
「それは結構ですな」
「一人娘が若気の至りで、男と駆け落ちなんてしちゃってねえ。捨てられて戻ってみると、火事で店は潰れたという。おとっつぁんもおっかさんも死んでしまって、たどり着いたのがこの店さ」
お熊は思わず涙ぐんだ。
しばしうつむき、やがて再び頭をもたげますト。
「前から言おう言おうと思っていたんだけどね」
「何です」
「お前さんは、おとっつぁんにそっくりなんだよ」
「オヤ」
「いつかおとっつぁんの代わりに孝行をさせておくれよ。風邪を引いたら無理せず休んでおくれ。お金なら私が面倒を見るからさ」
お熊の切なげな表情に。
西念はいたたまれないやら、嬉しいやらで。
お熊をなだめて暇を乞うト。
早々に女郎屋を後にいたしました。
その翌晩。
若松の前を通りかかりますト。
店の若い衆が西念を呼び止めた。
「西念さん。お熊さんがお呼びだよ」
若い衆に手を引かれて、二階へ上がる。
「どうしたんです。姐さん」
「西念さん。聞いておくれよ」
お熊はいつになく晴れやかな表情で。
「わたし、今度、旦那に身請けされることになったんだ」
「それはそれは、結構なことでございますなあ」
「旦那がね、家を借りて小商いでもしたらどうだと、こう言うんだよ。こないだ一緒に見に行ったらね、ちょうどいい家が五十両ばかりで見つかったんだ。すぐに十両を手付けで払ってさ、旦那が旅から帰ってきたら一緒に住むことになってるんだけど」
ここまで言って、お熊は西念の手を取った。
「旦那がさ、身寄りはあるのかってこう聞くんだ。それで、私つい言っちゃったんだよ。親父がひとりおりますって」
「姐さん――」
「旦那も、じゃあ引き取ったらいいじゃないかってさ」
西念は驚いた。
父親に顔が似ているトいうその一点のみで。
己をここまで想ってくれるお熊の純情が。
嬉しくもあり、気恥ずかしくもあり。
また、どこか申し訳ないような気もいたします。
「ところがね」
ト、お熊は顔を曇らせた。
「今日になって家主が、ほかに買い手がついたと、こう言ってきたんだよ」
「オヤ」
「すぐ買うなら売ってくれると言うんだけど、それには四十両を用意しないといけない。旦那が戻ってくるのはまだ四、五日先だしねえ。西念さん、誰かお金を貸してくれそうな人をお知りでないかい」
いかにも弱りきったお熊の顔を。
じっと見ていた西念は。
お熊の小さな手を握り返しますト。
膝を進めてにじり寄った。
――チョット、一息つきまして。