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鬼の手

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どこまでお話しましたか。
そうそう、獲物を待っていた猟師の兄が弟に、自身の髻を掴んでいる者を射れと言ったところまでで――。

山犬の遠吠えのようなその声は、夜空を横切るようにして去って行きました。

「どうだ、次郎。認めるかッ、認めないかッ」

闇の中で、兄の声が弟に詰め寄ります。

「わ、私はただ、お言葉に従って、兄者人の髻を握っていたという、鬼らしき者を討ったまでです」
「まだ言うかッ」

ト叫んだかと思うト、兄は横木から地面へ飛び降りた。

「降りてこい。いいものを見せてやる」

弟は言われるままに飛び降りますト。
その拍子に、手が何かごつごつしたものにぶつかりました。

勢い込んで、兄者人の頭に触れた後に、手に当たったもの――。
一瞬、考えを巡らす次郎の腕を、兄が乱暴に掴んで引き寄せる。

「どうだ。俺は鬼の腕をもぎ取ってやったぞ」

そこには、兄の髻を握ったまま、もぎ取られた腕がぶら下がっていた。

「さあ、帰ろうじゃないか」

兄は喜び勇んで、言いました。

「ついに恨みを晴らす日がやってきた。今頃、奴は己の寝間で、もがれた腕の跡を押さえながら、ウンウン唸っているだろう」
「や、奴とは誰です」

次郎は、声を震わせて訊きました。

「決まっているだろう。お前が母者人と呼ぶ、あの鬼だ」
「なんと恐ろしいことを――」
「恐ろしいだと。恐ろしいのは、あの鬼のほうじゃないか」

太郎は次郎の手を引っ張って、その鬼の腕だという何物かを、無理やりにさすらせました。

「どうだ。確かに、母者人の腕だろう」

次郎はゾッとして、兄の手を振り払った。

「そ、そんな訳はございません。母者人はお年を召して、長年寝たきりではございませんか。ことに近年は足が弱く、寝返りを打つのも一苦労だと言いますのに」
「お前の気持ちは分からぬでもない。長年、あれの世話を押し付けられて、さぞかし鬱憤も溜まっていることだろう。だから、お前に射れと言ったのだ。お前が母者人だというあれは、もう人ではないのだ。鬼と化して幾年月が過ぎているのだ。もはや、認めるがいい。次郎よ」

それっきり、兄弟は互いに一言も交わすことなく。
森の中を歩いて行った。




弟はうなだれて黙りこんだまま――。
兄は髻から鬼の手をぶら下げたまま――。

やがて、二人はそれぞれの家の前に着きました。

兄弟の家は、真ん中にある母屋を挟むようにして建っている。
その母屋に母が一人で住んでおりまして。
長年、弟の次郎が通って行っては、世話を見ておりました。

その母屋から――。
兄が言った、まさにその通りに――。
ウンウンと唸る母者人の声――。

「次郎よ、そうやって耳を塞いでいても始まらない。俺はみんな知っているのだ。母者人の両足を折ったのは、お前だろう。俺は責めない。むしろ、ありがたく思っている。早くとどめを刺して、楽になれ――」

兄が弟の背中をドンと押す。
つんのめって、次郎が母屋の戸の前までやってきた。

否応なしに聞こえてくる、ウンウンと唸る母の声。
目を閉じ、じっと耳を澄ましますト。
様々な思いが胸を去来します。

ト――。

ドーンと、突然その戸が乱暴に押し開けられまして。
はね飛ばされた次郎が、後ろ手を着いたまま、戸を見上げますト。
そこに立っていたのは、まぎれもない母者人。
失われた片腕の跡を、苦々しい表情で押さえている――。

「うぬらめッ――」

鬼婆が折られた両足を揃えて、ピョーンと跳びはねるように襲い掛かってくる。

真っ先に捕まったのは兄の太郎で。
鬼婆はもがれた片腕を、髻から強引に引き離しますト。
その髻から始めて、ガリガリと兄に食らいつき。
とうとう平らげてしまいました。

弟の次郎は、地に倒れこんだまま、腰を抜かして動けない。
兄が母親に食われる様子を、すっかり目の当たりに見ておりました。

そして、母がこちらへゆっくりと振り返る。
これみよがしに、折られた両足をきっちり揃えて。
ピョーン、ピョーン――。

飛び上がるト、膝から下が、ブラブラとだらしなく揺られます。

ピョーン、ピョーン――。
ピョーン、ピョーン――。

そして、弟もついに跡形もなく食われてしまったという。

そんなよくあるはなし――。
もとい、余苦在話でございます。

(「今昔物語集」巻二十七第二十二『猟師母成鬼擬*子語』ヨリ) ※ *は(口+敢)

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