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鰍沢(かじかざわ)

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こんな話がございます。

ご承知の通り、法華の総本山ト申しますト。
身延山(みのぶさん)久遠寺でございまして。
これは山がちで知られる甲斐の国の。
さらに深い山の奥でございます。

ときは冬。
吹雪の激しい日のことで。
振り分け荷物の旅人が。
参詣道を急いでいる。

法論石から小室山。
毒消しの護符を授かりまして。
富士川を下って身延へ参るべく。
これから鰍沢(かじかざわ)へ出ようという。

駿府まで急流が下る富士川の。
大きな河岸(かし)のひとつが鰍沢。

折からの大雪に足を取られ。
日暮れまでに抜けられそうにもない。
とはいえ、野宿もしようにない。

行けども行けども雪景色。
このままでは凍え死んでしまう。
そう心細く思っておりますト。
遠くに人家がポツンと見えてきた。

「御免ください」

あばら家の板戸をドンドン叩く。
ガラリと出てきましたのはひとりの女。
どうかト一夜の宿を乞うト。
どうぞト中へ招き入れた。

「お寒うございましたろう。焚き火がありますから、お当たんなさい」

か細く甘い声で言う。
囲炉裏に枯れ木をくべてフーっと吹く。
途端に赤い炎がドッと燃え上がる。

その灯に照らし出された女の顔。
見れば、年の頃は三十二、三。
鄙には珍しいほどの愛嬌が。
目許から零れておりますが。

顎の下、喉元に近いあたりに。
刃物で突いたような、えぐったような。
痛ましくもおぞましい傷跡が残っている。

凄まじい喉元の傷ト。
愛らしい目許の笑みト――。

旅人は思わず息を呑んだ。

「おかみさん」
「はい」
「間違っていたら御免なさいよ」
「なんでございましょう」
「どうもお言葉を聞くと、土地の方ではございますまい」
「ええ。私は江戸の生まれです」
「なるほど。やっぱりそうだ」

ト、温まり始めた膝を打った。

「おかみさん。あなた、吉原の熊蔵丸屋にいた月の兎(つきのと)花魁(おいらん)じゃございませんか」

旅人は懐かしそうに問いかけた。

「おや、どうしてご存知で」

女がにわかに目を見張る。




「ずっと以前、十年も前の二の酉の日でした。丸屋へ上がったことがありましてね」
「おや――」
「その時の敵娼(あいかた)があなたでした」
「――そうでございましたか」

雪より白い、月の兎(うさぎ)だト。
あどけなかった頃の花魁の。
美しい面影を重ね合わせるように。
男はじっと目を見張る。

逃げるように女は目を伏せた。

「それから次の年、また同じ二の酉の日でございましたが、もう一度丸屋へ上がると、あなたはもういない」
「――」
「男と心中したとか聞きましたが」

男は女の顔を待ち受けている。
女はそれでも目を伏せたままで。

「実は、ふたりして死に損ないました」

ト、うつむいたままそう答えた。

「体が元に戻ったら死罪にするからと、品川溜めへ――」
「――非人頭に預けられた」
「はい」
「それでは今ここにおられるのは」
「命惜しさに逃げてきたのです」

旅人はふたたび息を呑む。

「して、相手の男は」
「ここで夫婦をしております」
「そうですか。今日は旦那は」
「元が生薬屋の倅ですから、熊の膏薬を練ったのをこしらえまして、山越えをして売り歩いております」
「なるほど。ご苦労をされました」

旅人は奇縁に感じ入りまして。
胴巻きから小判三両を取り出しますト。

「花魁、これもなにかの縁でしょう。手土産もなにもございませんから、これをご亭主との暮らしの足しにでも」

女はなにも言わずにありがたく受け取りますト。

「ご覧の通りの山奥でなにもございませんが」
「どうぞ、お構いなく」
「いえ、せめて――」

ト、ようやく男を見た。

「せめて玉子酒でも召し上がってくださいな」

ト、言うト、燗鍋を囲炉裏に掛けまして。

雪より白い女の手が。
白い卵をコツンと割り。
ポチャリと黄身が鍋へ落ちる。
目の前に立つ白い湯気。

ト、そこまでは覚えておりますが。
そこから先がまったく記憶にございません。

――チョット、一息つきまして。

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